翌日の正午。私はチャイムと同時に席を立つと、昼休みで賑わう校舎とは反対側の建物にある視聴覚室に向かう。
この時間帯にそんな場所にいる変わり者は彼しかいないことを私は知っていた。
案の定、視聴覚室に向かう廊下の先を歩いている彼の後ろ姿を見つけると、私は追いかけてこう呼んでみたのだった。
「光くん」
静かな廊下に私の声が反響した。校舎の窓から財前くんにやわらかい白い日差しが降り注ぐ。よく見ると彼はイヤフォンで音楽を聴いていたため、私が呼ぶ声などまるで気づいていないようだった。と、思いきや、彼は急にその場に立ち尽くした。そして勢いよくこちらを振返ると、目の前までやって来て私の腕を掴んだ。
「今、なんて言いました?」
「えっ」
彼の視線が私の目をじっと見つめる。
「音楽聴いてたから全く聞こえなかったんスわ」
イヤフォンを片方の耳から外しながら財前くんはそう言った。
全く聞こえなかった、と言う割には私の声には反応しているではないかと思ったが気づかないふりをした。
「で、なんて言いました?」
彼は再び私に尋ねる。あまりにもこちらを真っすぐに見る彼に私の心臓が大きな鼓動を打った。
「…光くんって呼んだんだけど…」
「…………」
私がそう言うと財前くんはそのままじっと私を見つめる。私の鼓動はますます早鐘を打った。そして、しばらくして掴んでいた腕をそっと離すと「…なんか用ですか?」と、視線を逸らして答えた。私は我に返る。
「あ、あの、昨日の事でどうしても言っておきたい事があったから、ここならいるんじゃないかと思って」
「……」
「あのさ、」と私は言う。
「私、財前くんから謙也くんのこと取ったりしないから。安心して」
「は…?」
財前くんは目を丸くする。私はそのまま続けた。
「あれから私なりに考えてみたんだけど…。謙也くんの呼び方はやっぱり変えられないから、他のみんなのことを下の名前で呼ぼうかと思って」
「……」
「そしたら謙也くんだけ『特別』じゃなくなるから…。財前くんも安心かと思って」
「いや、なんの安心ですか。それ」
財前くんは顔をしかめる。そして、
「…ってかさっき俺のこと名前で呼んだのってまさかそれですか?」と言った。
私が「そうだけど」と返事をすると、財前くんは目を伏せて、そして小さく「なんやねん…」と呟く。
「先輩、アホでしょ」
「え」
「みんなを下の名前で呼ぶとか正直サムいからやめた方がええですよ。あと、なんか誤解してません?」
「誤解…?」
「俺からケンヤさん取らへんとかって」
「え、ちがった?」
「違うもなにもその発想おかしいやろ…ってかそれかなりキモいっすわ」
財前くんは深いため息をついた。
私の推測はどうやらかなり違っていたらしい。
「あといきなり俺の事、下の名前で呼ばんといてもらってええですか?」
財前くんは腕組みし、不服そうな顔をしてそう言った。
「え、もしかして嫌だった?」
「嫌です」
はっきりと言われてしまい、私は悲しくなった。さすがに急に下の名前で呼んだのはまずかったようだ。財前くんのためと思って考えた苦肉の策が逆効果になってしまい、私は落ち込む。 しかし彼はそんな私を見て表情を緩めると、こう言うのだった。
「『光くん』やなくて、呼ぶんやったら『光』って呼び捨てで呼んでもらえます?」
私は驚きのあまり目を見開く。続けて財前くんはこう言った。
「その代わり俺も先輩のこと楓って呼ぶけどもちろんええですよね?」
「………」
「あ、お互いそうやって呼んでたら周りから勘違いされるかもしれないですけど、俺は全然ええですから」
「……」
「せやからみんなの事、下の名前で呼んだら意味なくなるんでやめてくださいね」
「…」
「これで『謙也くん』に勝てますわ」
静まり返った校舎内にチャイムの音が鳴り響く。
彼の嫉妬の矛先はどうやら私の方ではなかったようだ。
全てを理解した私は自分の体温が一気に上昇するのがわかり、しばらくその場から動けないでいた。
ふと財前くんを見ると彼は柔らかい表情で私の方を見つめていたのだった────