金曜日の早朝。目覚めてから窓を開けると、初夏の生ぬるい風が肌を撫でていった。今日の日中も気温は高いらしい。テニス部はまた今日も朝練をすることになり、そのために私も早起きすることとなった。
階段を降りていき、朝のテレビ番組を見ながら、キッチンで二人分の朝ご飯と自分の弁当を作った。そのあと母親の寝室へ行き、母を揺り起こすとかなり不機嫌になりながら目を覚ました。私は思わず身構える。母は私の横を通り抜けるとリビングへ向かい、ついていたテレビをリモコンで荒々しく消した。
「あーもー、朝からうるさい!静かにしてよ!」
「!……ごめん」
母の怒鳴り声が響いてびくりとする。母は機嫌が良い時と悪い時があり、情緒が不安定だった。私の小さい頃に父と離婚してからその症状は始まった。機嫌が良い時はいいが、悪い時は私にそのイライラを何の躊躇もなくぶつけてくる。私は昔からずっと母の機嫌を窺いながら生活していた。
部屋の中に溜まった息苦しい空気のなか、母とリビングのテーブルで向かい合って朝ご飯を食べた。ちらっと母のことを盗み見ると、だんだんと怒りは落ち着いてきたようであり、私はほっとする。
「今日は金曜日よね。ママ家に帰らないからご飯は適当に食べてね」
静かな口調でそう言うと、母はテーブルにお金を無造作に置いた。金曜日はいつも母は家に帰らなかった。金曜どころかそのまま土日もそのまま帰らない日もあった。特に理由は聞いていないが、おそらく恋人の家に泊まっているのだと私は勘づいていた。
学校へ行く支度をすると、私は母よりも先に家を出た。外の空気を吸うと重かった気分が少し楽になった。
住宅街を抜けて通学路を歩く。まだ早朝のためか辺りは人の姿もあまりなく、静かだった。
すると、見覚えのある後ろ姿が見えてきて、心臓がどきりとする。思わず歩む足のスピードを緩めた。彼は両耳にイヤフォンをして音楽を聴きながら、まっすぐ前を向いて歩いているようだった。
あの雨の日から財前くんとは話をしていなかった。なんとなく私の方が気まずくなって、昨日の部活中も話しかけれないでいた。
どうしよう……。音楽を聴いているので邪魔しない方がいいだろうか。かといってこのまま後ろを黙ってついていくのはおかしいかもしれない。とりあえず挨拶はした方がいいと思うが、そのあと何を話そう。
考えれば考えるほど、鼓動が早くなりすぎておかしくなりそうだった。しかし迷っていても仕方がないので、とにかく挨拶しようと思った。そう決めると早足で財前くんに近づいた。彼の後ろ姿がだんだん近づいてきて緊張する。耳のピアスが反射して目に映る。深呼吸して、震える手で彼の肩をぽんぽんと二回叩いた。彼は足を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。
「?ああ、楓先輩。おはようございます」
財前くんはイヤフォンを外して私の顔を見た。私と彼の目が合う。
「財前くんおはよう。今日も暑いよね」
緊張で顔が強張ってないだろうか。大丈夫だろうか。私はどきどきしていることを悟られないように、自然になるように振る舞った。
「そうっすね……」
「……?」
なんとなくいつもと違う感じがした。なにか考え事をしているような、落ち着かないような様子だった。私は気になったがいきなり訊ねるのもどうかと思い、何も言わずに財前くんの様子を窺った。すると彼は「あの、楓先輩」と私のことを改めて見た。
「俺これから部活終わった後、用事があってしばらく残れそうにないんです」
「……」
「すみませんけど、先に帰らさせてもらいますわ」
そう言って財前くんは少しすまなそうにした。彼の言葉に耳を疑う。呆然としていた私は我に返ると、慌てて目の前で手を左右に振った。
「そんな全然。私の方こそいつもごめんね。時間割いて付き合ってもらっちゃってて」
「いや、それは全然ええですけど」
用事ってなんだろう。しかしそこまではさすがに訊けないと思った。しばらくということは当分は財前くんとは帰れないということだ。
「私の方は大丈夫だから、用事の方を優先してね」
私は心の中で落ち込んだ。
「なんか無理してませんか?」
「え?」胸がどきりとする。
「……もしなんか俺に話したいことがあったら、電話とかメッセージやったらいつでもしてくれてええんで」
財前くんはまっすぐ前を見ながらそう言った。なんとなく気持ちを見透かされている気がした。私は素直に「うん、ありがとう」と返事をする。心が少し軽くなった。
気がつくといつの間にか学校前の鳥居に到着していた。コートへ行くとすでにみんなの姿があった。私たちは朝練の準備をして、練習開始となった。財前くんはそのあとだんだんと普段の調子に戻ってきたようで、ほっとする。しかしなんだか先ほどの彼のことが少し引っ掛かっていて、私はしばらく落ち着かなかった。