フェイズ6

 翌日。昨日と同様に暑い日が続いていた。

 朝、教室に入ると、数人の生徒がいるなかに川田さんがいた。彼女は自分の席で教科書を広げていた。凛とした居住まいが目を惹いて思わず見惚れてしまう。私は昨日どうしてあのタイミングで彼女のことが頭に浮かんだんだろう。財前くんが彼女にどういう返事をしたのか自分でも気になっていたのだろうか。変なタイミングで財前くんに訊いてしまい、おかしかったかなと少し後悔する。

 財前くんは川田さんの告白を断ってしまったようだが、彼女の様子は落ち込んではおらず、むしろいつもと変わらず落ち着いていた。私はそれを見るとほっと息を吐く。

しかしなぜだか自分の気持ちがほんの少しざわついていることに気がついた。

 「おはようさん」

 突然後ろで声がして、振り向くと謙也くんが立っていた。

 「あ、おはよう!」

 鼓動が少し早くなる。私は動揺しないようにしてあいさつをした。謙也くんは衣替えをして夏服になっていた。

 「今日の一限目、世界史のテストとかホンマ、ツイてないわー」

 謙也くんはみんなにも聞こえるような大きな声で言った。

 「謙也くん、世界史苦手だったもんね?」

 「せやねん。楓ちゃん、ノートよかったらちょっとだけ見せてくれへん?」

 「ノート?うん、いいよ」

 私は自分の鞄から世界史のノートを取り出した。それを謙也くんに手渡すと「おおきに、これでテストも楽勝やで!」と拳を握って彼は笑った。彼は自分の席に着くと、荷物を置いて、私のノートと教科書を広げた。

 謙也くんの席は私の席の少し離れた斜め前だった。私は自分の席で勉強するふりをして、謙也くんの後ろ姿を見つめる。彼はいつもと同じで調子で明るかったが、昨日のことを思い返すと本当は無理をしているのではないかと私は疑った。謙也くんの本当の気持ちを私は知りたいと思う。けれど私にはそれが見抜けなくて、直接訊いてもいいものかわからず、どうすればいいのだろうと複雑な思いになった。

***

 放課後、またいつものように部活が終わると財前くんと二人になった。部室から窓の外を眺めると太陽が雲に覆われて薄暗く、なんとなく雨が降りそうな予感がした。

 私は昨日のことで自分が情けないような、恥ずかしいような気持ちでいっぱいになっていた。昨日の電話での財前くんとの会話を思い出すと、また涙が溢れてしまいそうになる。彼は前からアドバイスをくれて優しかったが、それにしても昨日は特別優しかったような気がする。それはなんだか心がこそばゆいような変な感じがした。

 私は自分が泣いている姿を財前くんに見られていなくてよかったなと思った。電話でなければあのまま泣き出して止まらなくなっていたかもしれない。けれど彼のことだからきっと私の様子に気づいていたに違いない。そう考えるとなんだか恥ずかしさと気まずさが入り混じった気持ちになった。

 「はぁ、あっついわ」

 財前くんは私の隣に座ると、開いた制服の襟元をぱたぱたと仰いだ。財前くんも制服が夏服に変わっていた。

 「外すごい暑かったよね、クーラーもう少し温度下げようか?」

 そう言って私はリモコンを手に取ろうとする。なんとなく財前くんの方は見れないでいた。

 「いや、ええですわ」財前くんは断った。

 「あんまり冷えると手足冷たくなるし、俺、体温低いんで」

 「体温?」思わず財前くんの方をちらりと見る。

 「そ。なんか平熱が低いんです。手と足だけいつも冷えてるんすわ、ほら」

 彼はそう言うと、自分の手を私の前に差しだした。何を促されているか瞬時に理解して、私は思わずどきりとする。しかし変に動揺していることがわかれば気まずくなりそうで、私は悟られないようにして、不自然にならないように彼の手を握った。

 「!ほんとだ、冷たいね」

 鼓動が少し早くなる。財前くんの手は冷たかった。私の手よりも思ったより大きくて、指は骨張っていた。

 「スポーツしてるのに、なんでだろうね。不思議」

 何も気にしてないことを装うと、私は財前くんからゆっくりと手を離した。

 財前くんは「ほんまそれっすわ」と自分の手を握ってため息をつく。

 財前くんは今日も何も言わずに部室に残ってくれていた。私たちは部活終わりに居残るのがもう当たり前のようになっていた。

 私は今日は五組には行かず、彼氏と廊下ですれ違うこともなかったので、彼について財前くんに聞いてもらう話は特になかった。財前くんは昨日の電話のことにも触れてくる様子もないようだった。私の方も自分が泣いてしまったことが恥ずかしくて、あえてその話題には触れずにいた。

 『楓先輩はなんも悪くないですよ』
 
 昨日の彼の言葉を思い出す。

 財前くんは自分の時間を割いてまで、いつも一緒にいてくれる。昨日もわざわざ電話をくれて私の話に付き合ってくれた。彼は誰にでもこんなに優しいのだろうか。そう思ったが、部活中の彼を見ていると、面倒そうにしていたり、三年生の先輩たちに悪態をついたりしていて、とてもそんな感じには見えなかった。

 私は財前くんのことを横目で見る。

 財前くんはおもむろに足元の鞄の中からペットボトルの飲み物を取り出した。ふたを開けるとそれを勢いよく飲んだ。

 ごくり、ごくり、と彼の喉元が鳴る。横顔の額から汗がつたっていってぽたり、と肩に落ちる。制服の開いた襟元から鎖骨がのぞいていた。やわらかな髪がクーラーの風にさらさらなびいて、耳とピアスにかかる。前髪の隙間から彼の黒い瞳がまばたきする……。私はそれを見ているとなんだか落ち着かなくなった。

 「そのジュースって最近発売されたやつだよね?」

 心臓の音が隣にいる彼に聞こえてしまうのではないかと気が気でなくなり、私は思わず質問する。

 「あ、これですか?」と財前くんはジュースを飲むのをやめてそう言った。

 「ネットの動画でCMやってて、気になったんで買ってみたんですわ」

 財前くんはペットボトルのラベルに視線を移した。

 「へえ、どんな味?おいしい?」私は何か話していないといけない気分になり、また彼に質問する。

 「んー、柑橘系で味はまぁまぁっすかね。よかったら飲んでみます?」

 財前くんは私にジュースのペットボトルを差しだした。思ってもみない返事が返ってきたので、私はどぎまぎとした。なぜか妙に意識してしまい、さっきよりもどきどきと心臓がうるさくなった。手が震えないようにして、私はなんとか平静を装い「うん、ありがとう」と答えて、それを受け取った。ふたを開ける。

 ペットボトルを傾けてジュースをぐいっと飲むと、爽やかな柑橘類の甘さが舌全体に広がっていく。シュワっとした炭酸が、喉の奥に流れて弾けた。

 「っ!?けほっ、けほっ」

 私は勢いよく飲み過ぎてむせてしまい、下に俯いた。ポタ、ポタ……とペットボトルからジュースをほんの少し地面にこぼしてしまう。

 「ちょっ、大丈夫ですか?」

 「た、炭酸が喉の奥のほうに入って……。ごめんね、ジュースこぼしちゃって……」

 「いや、ええから。こっち向いて」

 顔を上げて財前くんの方を向くと、彼は自分のスポーツタオルを出して、私の口元を優しく拭いた。

 「ジュースこぼすとか、子供みたいやな」

 そう言ってぷっと噴き出して微笑んだ。財前くんの目が細くなる。その瞬間、私の胸にちくっと甘い痛みが走った。