結べない花

彼女の花みたいな笑顔が好きやった。とか、俺は柄にもなくそんなことを思っていた。

彼女の満面の笑み。それを見ると俺が今までくだらんと思っていた何もかもが一気に浄化される気がした。
俺の渇いた心のなかに何か暖かいものが流れていくような、そんな不思議な感覚になった。

これはもしかすると、ある種、憧れみたいなものでもあったのかもしれへん。

こんなアホみたいなこと、本人には口が裂けても言えんわ。というか一生言うつもりもない。

 

***

 

「財前くん、あの…」

ある日、部室で二人きりになると、彼女から声をかけられる。

夕日が西の空に静かに沈んでいくのが窓から見えた。

俺が「なんですか?」と彼女の方を見て尋ねると、彼女はなかなか言い出せずにしばらく視線を足元に向けていた。彼女のまつ毛の影が頬に落ちていた。俺はそれをただなんとなく見ていた。

彼女はようやく一呼吸おいた。そして、

「私、謙也くんと付き合うことになったの」と顔を上げ、俺を見るとそう言った。

「……そうっすか。おめでとうございます」

俺は少し間をおいてから返答した。

「うん、ありがとう…」

彼女はそう言いながらもどこか寂しげだった。俺はそんな彼女のことを何も言わずに見つめていた。気がつくといつの間にか日が暮れて、窓の外が黒く滲んでいた。

「財前くんは……」
「?」
「好きな人とかいないの?」

しばらく沈黙が続いた後、彼女は俺を窺うようにしながらそう尋ねた。
ふと、彼女の手に目をやる。少しだけ指先が震えていた。

「好きな人……。いませんけど」

なるべく平静を装うと、俺はそう答えた。
思わず彼女の震えている指に触れたくなった。しかしその感情をすぐさま見ないように蓋をする。

「そっか……なんとなく、そんな気がした」

彼女はどこか吹っ切れたような、少し安心したような表情をした。そして「言いたかったのはそれだけなの」と、いつものような明るい笑顔を俺の方に向けた。

彼女の笑顔の花。その花を俺は自分の胸の奥へとそっとしまい込んだ。

 

俺は彼女のことが「好き」だった。

「好き」──いや、これはそんな簡単な言葉で収まるような感情ではなかった。
いつからだろう。気が付いた時には既に自分の中のなにもかもが彼女で埋めつくされていた。
それ以外はどうでもよかった。おそらくこの気持ちはずっと後にも先にも変わらない。

彼女とずっと一緒にいるためには、俺と彼女の関係は「このまま」にするしかなかった。

いつの日か自分の彼女への気持ちの大きさが異常なことに俺は気づいてしまった。
安易に近づいてしまうと関係が壊れてしまうのではないかと思い怖かった。
俺はどうするべきか考えた末、その結果「彼女の隣にいるのはケンヤさん」という結論に至った。
臆病な自分ではきっと彼女には相応しくない。俺はそう自分に言い聞かせた。

 

──それからふたりが付き合い始める。ふたりともどこか似ていて俺が言うのもなんやけどお似合いやと思った。
俺はいつもふたりの楽しそうな後ろ姿を眺めていた。

(しばらく何も感じなければええわ。)

きっといつかこの光景にも慣れてくるだろう。
俺は自分の中にまとわりつく感情を見ないようにしてやり過ごした。

するとある日突然、自分の胸の中の奥の方で何かが壊れていくような音がした。
その音が鳴るとなぜか息苦しくなる。俺はその正体不明の音に辟易した。

(なんやねん、これでよかったはずや……。)

何度も自分に言い聞かせるが、頭で思っていることと心の内との違いに混乱しそうになる。

(もしかすると、今ならまだ……。)

気持ちを正直に伝えれば彼女の隣にいられるのかもしれない……。そう何度も考えた。

しかし結局俺は臆病者だったのだ。
何も行動できないまま、また何事もなかったかのようにして、気がつくといつも通りの自分自身を装っていた。

そうしているうちに、刻々と日々は過ぎていった────。

 

***

それからあっという間に数年が経過した。

突き抜けるような明るい晴天が広がっている。まばゆい日差しが降り注ぐなか、俺は足早に挙式会場へと向かった。

 

「あっ……財前くん!」

控室の扉をノックして入ると、一人きりでいた彼女が俺に気がついて駆け寄って来る。

「結婚、おめでとうございます」

彼女の方を向いて、俺は祝福の言葉を掛けた。

俺は大学卒業後フリーのカメラマンとなり、彼女とケンヤさんから今日の写真撮影を任されていたのだ。

「来てくれてありがとう」

彼女は俺の顔を見てにこりと微笑んだ。その途端、ふわりと自分の心のなかに暖かいものが流れてくる。

「ケンヤさんは?」

「今、席外してて……」

俺は目の前のウェディングドレス姿の彼女を眺めた。
それは透き通るように柔らかかった。俺は彼女自身からどこか崇高さのようなものを感じ取っていた。

俺と彼女はしばらく二人きりで会話をした。中学校時代の何気ない昔話であった。

しばらくすると彼女は突然黙り込み、俺に何か言いたげな目をした。俺は彼女の瞳を見つめる。すると彼女の黒い瞳は出入り口の方を映し、他に誰もやって来ないことを確かめると、俺にこっそりと耳打ちした。

「あの…ずっと、言いたかったんだけど」

「……」

「私、本当はずっと財前くんのことが好きだったんだ。知らなかったでしょう?」

「……」

「実は中学の時に告白しようと思ってたんだ。でも財前くん、私に興味なさそうだったから…」

「……」

「そしたら謙也くんから告白されて、それでね……」

「……」

彼女の話が終わると俺はため息をついた。
そして彼女を見ながら呆れたようにして少し笑う。

「はぁ。いつの話ですか、それ」

「たしかに……今更なにって思うよね」

俺に続けて彼女も少し笑顔をつくった。

「でも、わからないけど……なんとなく言っておきたくて……」

そう言うと彼女はどこか寂しそうだった。まるであの時のようやなと俺は思う。俺はそんな彼女に対してできるだけ明るく振る舞おうとした。

「ハァ、ホンマにこれから式に出る人が何言うてるんですか」

「……」

「そんなん言うてたら、ケンヤさんにおこられますよ」

「う、うん確かに。それもそうだね」

俺がそう言うと彼女は気を取り直し、またにっこりと微笑んだ。目の前にまた花が咲く。

彼女の笑顔はあの頃と何も変わらんかった。

彼女が笑う。目の前で花が咲く。

俺はその花を胸の奥にそっとしまい込む。

何も変わらんかった。

 

「ほな、先に写真撮りましょうか?」

俺は先に彼女一人きりの姿をカメラに収めた。
ファインダー越しに彼女は笑う。俺はシャッターを押した。そしてふと思う。今でもやっぱり彼女のことが好きやと。けれど彼女は俺の気持ちを知らなかった。おそらくこの先もずっと、それに気づくことはない。

ふと、自分の胸の奥であの時のように何かが壊れていく音が聞こえた。

撮影が終わると俺は席を外すと言って控室を出た。広い通路をしばらく歩くと急に足がすくんで、その場から動けなくなった。酷い眩暈に襲われる。壁にもたれかかり、カメラの写真をもう一度確認する。そこには彼女がいた。俺の気持ちなど何も知らない、屈託なく微笑んでいる彼女の姿が。

突然、堰を切ったようにして胸の奥から次から次へと何かが溢れて止まらなくなった。それは今まで見ないようにしていた自分自身の本当の気持ちだった。本当は自分でも嫌になるほど彼女の隣にいたいと願っていた。自分だけのものにしてしまいかった。今更なにもできなかった。胸の奥に何度もしまっておいた彼女の花。それを自分だけが抱えながら、俺はこれからも彼女のことを何度も、何度も、想い続けるのだ。それは、ずっとこの先も変わることのない、俺が望んでいた『永遠』だった────。