「あ…せや」
財前くんが不意に口を開いた。
「そういえば、他にも気になってた本あったんで、俺そっち見てきますわ」
彼は突然そう言うと身を翻して本棚の間の通路を抜け、あっという間に向こうへと行ってしまった。
私は呆然とした。そしてしばらくしてからはっと我に返る。彼のことを黙ったまま見つめすぎたせいか気まずいと思われたのかもしれない。私は彼がいなくなった向かい側の本棚を見ておもわず放心する。とりあえずここにいても仕方がないので読書コーナーがある別の棟へと向かおうと思った。
「……どうしよう……」
読書コーナーのいちばん端の窓際の席に座ると、私は両手で頬杖をつき小さく呟いた。窓の外に目をやると先ほどよりも雨が強く降っている。そのせいか図書館に来ている人の人数はまばらであった。
私の目の前には財前くんが先ほど取ってくれた小説が置いてある。私はそれをぼんやりと眺めてから手に取り、本を読んで心を落ち着かせようと思ったが内容がまるで頭に入ってこなかった。
彼の事がもっと知りたくなってしまった。彼が一体何を考えていて、何を思っているのか。好きなものや嫌いなもの…とにかく今まで知らなかった彼の部分を知ってみたいと思った。突然溢れだしてきた想いに私は戸惑った。
本を握っている手の部分がじんわりと熱を帯びている。自覚すると心臓の音が早まった。先ほど彼の近くにいた時もそうだった。一体私はどうしてしまったんだろう。
「………」
しばらくしても彼はやって来ない。本を読むのなら必ずここに来るはずなのだが。
「はぁ…」
私は何度目かのため息をついて机の上に突っ伏した。どうしてかなんとなく息苦しい。私は落ち着いて深呼吸をする。 彼のことを考えすぎてしまったせいか、力を抜くと一気に頭がぼんやりとした。そのうちだんだん微睡んでいき、私は闇の中へと落ちていった───。
***
ゆっくりと顔を上げると射した光が眩しくて、思わず私は顔をしかめた。机を挟んだ向かいには財前くんの姿が見える。彼の周りには数冊の音楽雑誌や楽譜が広げられており、頬杖をついてそれに集中していた。
「あ、起きた」
財前くんは私に気づいて顔を上げた。そして少し呆れた顔をして笑う。
「おはようございます」
「……!」
その瞬間私は自分の状況を理解した。
「ほんま、よう寝てましたわ。じゃあ行きましょうか」
私はハッとして周囲を見渡す。図書館の館内はすっかり閑散としている。窓の外を見ると雨はもう完全に上がっており、空は夕暮れになっていた。壁に掛けてある時計を見るともうすぐ図書館の閉館時刻だった───。
***
「ごめん、全く気がつかなくて。起こしてくれてもよかったのに…」
私たちは図書館を後にし、帰り道の方向へと歩き始めた。外は雨上がりの湿気を含んだ空気がまだ残っている。
「いびき、かいてましたよ」
「え!?」
私が驚くと「冗談ですわ」と言い、財前くんはまたふっと笑う。彼の横顔が夕日に染まり、彼のピアスにはオレンジ色の光が映り込んでいた。
「別に気にせんでええですよ、音楽の本いっぱい読めたしおもろかったんで」
「うん…」
そうは言っても私は少し落ち込んでしまう。眠っていたせいであっという間に時間が過ぎてしまった。
私たちはたわいもない会話をして並んで歩いた。
(……手、もう繋がないのかな)
傘を持っていないもう片方の手をぶらぶらさせていたら、なんとなくそこに彼の手があり思わずじっと見つめてしまった。私は一体何を考えているんだろう。しかし、今日一日で変化したこの気持ちの正体に私は気づきそうだった。
夕日がゆっくりと沈んでいく。しばらくすると見知った場所が近づいてきて、このまま進んで行くと私の自宅への帰り道に合流しそうだと気がついた。
「来週はどこに行くんだろう」頭の中でなんとなくその言葉がぼんやり浮かんだ。しかし来週なんて果たしてあるのだろうか。もし財前くんがブログのネタ探しはこれで終わりだと言ってしまえばもうこんな風に二人きりで会うこともなくなってしまう。私はそれを考えると急に寂しくて切ない気持ちになった。
「……財前くん、」
私はなんとか知恵を絞ろうとする。
「はい」
「写真…なんだけど」
「写真?」
彼は私の方を見る。
「この間の日曜に撮ってた写真、私も欲しいんだけど…送ってもらってもいいかな?」
ほんの少しだけ、本当に少しの間だけでいいから財前くんと一緒にいたい。その口実を無理やり作ろうとして私はそう切り出した。
「ええですけど。でもまぁまぁ枚数ありますよ?」
「じゃあ、見せてもらって何枚か選んでもいい?」
「……わかりました。ほんならそこ、ちょうどええわ。座りましょ」
そこ、と財前くんが指をさした先は私たちがちょうど通りかかった小さな公園内にある東屋のベンチだった。