深夜。光はその場に佇んだ。
誰もいない店内はいつもより広く感じる。蛍光灯の灯りが眩しくて目の奥に染みた。少し高めに温度設定したクーラーからは弱々しい風が流れてきて時折肌を掠めていった。
ふとガラス張りの店内から遠くの風景に目をやる。街はすっかりと寝静まっていた。すぐそばの夜の闇には人が通る気配は全くない。街灯の明かりは白く霞んで辺りを薄暗く照らしている。耳を澄ますと遠くで車が走っていくような音がした。
レジカウンター内からいつも通りの景色を眺めると光は紙パックのジュースを持って、店の奥へと引きこもった。
「はぁ……ねむ」
光はバックヤードの机に座る。そして廃棄になった雑誌をパラパラとめくりながら、ただただ時間が過ぎるのを待つ。店内には深夜用のBGMの音が微かに流れていた。
光が深夜のコンビニのアルバイトを始めてもう一年以上になる。
学校がない休日に限りこのシフトに入っているのだが、もうすっかり仕事にも慣れてきた。この時間は店主が帰ってしまうため基本的に自分一人しかいなく、仕事といっても気楽なものであった。店は住宅街から少し離れた位置にあるためか深夜の客はほとんど訪れることがなく、そのため光の服装は上半身に店の制服、下はジャージという非常にラフなものであった。
やるべき仕事がある程度まで片付いてしまうと光はバイトが終わる早朝まで時間を持て余してしまっていた。先ほどから何度も壁に掛けてある時計を確認するが針の動きは一向に進まない。光は頬杖をついて何度もあくびを連発した。
〜♪
すると、突然店の自動ドアが開く音が店内に響いてふと我に返る。思わず店内を映すカメラを確認するとそこには光と同い年くらいの女性の姿が映っていた。
「…客?」
こんな時間に入店するなんて珍しいと光は思った。しかも女性がたったひとりで来るなんて今までの記憶を辿ってみてもほとんどなかったはずである。光は夜中に物騒やな…と思いつつ、あくびのせいで出た涙を手で拭いながら重い腰を上げて渋々レジカウンターに繋ぐ扉に手を掛けた。
「…………」
店の表へ出るといらっしゃいませ、などと声掛けをするわけでもなく、無言でのそのそと気怠そうに光はレジ前に姿を現す。
「光…くん?」
「!」
急に自分の名前を呼ばれて驚き、光はカウンター越しにいる目の前の客を見た。そこには光のよく知っている人物が立っている。
「楓、先輩?」
「やっぱり…光くんだ」
「久しぶり」と言って彼女──佐藤楓はこちらを見て微笑む。光は目を見開いた。
「光くん、ここでバイトしてるんだね」
「そうですけど…。いや、ってか楓先輩こそこんなとこで何してはるんですか?」
「え?」
「いま何時やと思ってるんですか、こんな夜中に…」と光は怪訝そうな顔をしながら楓の方を見る。彼女はTシャツのロングワンピースにスニーカーを履いていた。半袖から覗く細くて白い腕が清らかで透き通っているように見える。光は彼女から目を逸らして店内の時計を見る。既に深夜の三時を回っていた。
「ちょっとなかなか眠れなくて…コンビニでも寄ろうかと思ってさ」
そう言うと楓は目を伏せる。その後にほんの少し表情に陰った。それを見て光は、ああ、懐かしいな、と思う。それは昔からいつも楓が何かを悩んでいる時にする癖であることを光はよく知っていた。
「いや、普通に危ないですから。なにで来たんですか?」
「歩いて…だけど」
「ここまで?」
「うん。最近こっちに越してきたから家はこの向こうなの」
「ああ、こないだ言うてた一人暮らし、ですか?」
「そうそう、やっと始めたんだ」
光と楓は中学を卒業してからはお互い会うことほとんどなかったが、連絡だけは一応取り合っていた。そういえば前に一人暮らしがしたいと楓とのやりとりの中にあったことを思い出す。だがこんな夜更けにたった一人きりで出歩くなんて、しかもこれで一人暮らしをしているとは、無防備すぎるにも程があると光は呆れを通り越して心配になる。楓にはこういう危なっかしいところが中学生の頃から度々あった。
「帰り、タクシー呼びましょうか?」
「え?タクシー?いやいや、近いからまた歩いて帰るよ」
「いや駄目ですって。そしたら俺、家まで送りますわ」
「え、でも仕事中だよね…?」
確かに光は今は店を空けるわけにはいかなかった。店員は自分一人しかいないため、店を出た瞬間にコンビニはもぬけの殻となってしまう。
「じゃあ俺がバイト上がるまで店で待っててもらえます?……って言ってもあと三時間くらいありますけど」
と言って光は再び壁にある時計を見た。続けて口を開く。
「どうせ眠れないんやったらここにおっても家にいても変わらんでしょ」
「うん、確かに。…ありがとう。なんかごめんね、気を使わしちゃって」
「はぁ、それ言うんやったら次からはもっと気をつけてください。なんも考えんと出歩くとか子供とちがうねんから」
光はつい口調がきつくなってしまう。楓を心配して言ったつもりだったが焦りから出た言葉は自分の思いとは裏腹になってしまった。
楓ははっとしてまた目を伏せると「そうだね、ごめん…」とすまなそうな顔をした。光は心の中でしまった、と思ったが後に続く良い言葉が思い浮かばず、そのままいつもの態度で会話を続けるしかなかった。
「…そしたらそこで座って待っといてください。あ、暇やったら本立ち読みしててもいいですから」
まるで自分の自宅にでも案内するかのような口調で光は楓にそう言う。そこ、と指をさした先にあったのは店内の奥にある人が三、四人ほど掛けれるぐらいのカウンターテーブルと椅子がある小さな飲食スペースであった。楓は「わかった。じゃあ光くんが終わるまで待ってるね」と少し安心した表情でそう言うとその場所へ行き腰を落ち着かせた。
「………」
店内はとても静かだった。
これは夢だろうか?と光は目の前の光景を疑う。まさか楓とこんな時間にこのような場所で再会するとは思ってもみない出来事であった。光は少し遠くにある彼女の背中をぼんやりと眺めてから隣に目を移す。楓が来るとわかっていたらもう少しマシな格好してきたんやけどな、と暗いガラスに映った自分の姿を見てため息をついた。
光は中学生の頃からずっと密かに楓に想いを寄せていたのだった。今まで自分のこの気持ちを当の本人にはもちろんのこと誰にも漏らしたことはない。卒業して会わなくなってからも彼女へのその気持ちは変わらないままでいた。しかし光は今後も自分の気持ちを伝えるつもりはない。ただ彼女を想うだけでよかった、それ以上は自分からは何も望まないでおこうと思い心に留めていた。
「すみません」
ふと声がして、光が顔を上げるとカウンター越しに楓がいた。一瞬、光の心臓が大きな音を立てる。
「あのー、この時間に食べても太らないものってありますか?」
「……」
光を伺うようにして楓は尋ねる。どうやらお客のフリをしているつもりらしい。光は「ありません」と平然として答えた。
「え?えーと、じゃあ……何か食べ物でおすすめはありますか?」と続けて彼女は尋ねる。光はまた「ありません」と即答する。しかし少し考えてから「白玉ぜんざい」と言い直した。
「もう少し甘さ控えめのものでお願いします……」と楓は少し困ったような笑みを浮かべてそう言った。
「何か食べるんですか?」
「うん。さすがに何も買わずに待たせてもらうの悪い気がして」
「あとお腹も空いてきたし」と言い楓は自分のおへそのあたりに手を当てると光を見て微笑む。危なっかしいくせに変なところだけは真面目やな、と光は思い、少しだけ頬を緩ませた。
結局楓は小さめのカップアイスを手に取ると「このコンビニ、クーラーの効きが悪いね」と言いながら光のいるレジに持ってくる。光はそれには答えずに無言でスキャンすると、お会計をしてお釣りを渡す。
「ありがとう」
「ちょっと待っててください」
「え?」
光は後ろを向くと慣れた手つきでマシンからアイスコーヒーを入れると楓に差し出した。
「これ、あげます。待っててもらうのまだ時間ありますから、俺の奢りですわ」
「え…?いいの?」
楓が目をやるとアイスコーヒー。そして自分がいつもコーヒーに入れる分だけのミルクと砂糖がカウンターに置いてあった。
「……?私がコーヒーに入れるの、よく知ってるね」
「……たまたまちゃいますか」
たまたまではなかった。光は楓のことなら大抵のことは知っているのだ。
楓は「じゃあ今度こそ向こうで待ってるね」と商品を手に持つと再び元の場所に戻っていった。
──あっという間に一時間が経過する。いつもなら店の裏に引きこもると全く出て来ない光だったが、今は楓がいるせいかほとんど店の表で何かしら時間を潰そうと作業していた。光は作業しながらも何度も横目で飲食スペースにいる彼女を確認する。楓のそばには空になったアイスとコーヒーのカップが重ねて置いてあった。彼女は眠そうにして何度も目を擦りながらずっとスマホを操作している。
光はいまだに楓と二人きりでここにいることに現実味がなかった。深夜という時間帯も相まってか寝ている間に見ている夢のような、とてもぼんやりとしていて不思議で曖昧な気分の中にいた。しばらくすると夜明け前にかけての怠さや疲れがゆっくりと光の体に染み渡った。やがてそれが深くのしかかると次は眠気が襲ってきて、意識が微睡み、蛍光灯の灯りが白く目に霞むと、夢現の境をさまよいだした。
「…!」
光は我に返る。慌てて自分の意識を無理やり奮い立たせようと首を横に振った。気を取り直してゴミでも集めようかと思い楓のそばを通りかかると、いつの間にか彼女はテーブルに伏せて眠ってしまっていた。
「……」
ガラスの外はまだ暗い。そして静かだった。店内では疲れきった二人を灯りが淡々と照らしている。まるでこの空間だけが自分の頭の中で見ている夢として切り取られているみたいだった。ずっとこのまま夢が醒めずに、永遠に楓が自分のことを待っていてくれればいいのに、と光は思う。
光はゆっくりと楓のことを起こさないようにして近づき、寝ている彼女の顔を覗き込んで見つめる。楓は一定のリズムで寝息を立ててあどけない顔で深く眠っていた。
何の夢を見ているんだろうか。先ほど眠れないと彼女は言っていたがどんな気持ちでここに来て、一体どんなことで悩んでいるのだろう。もしも自分があとで聞いたら楓は話してくれるだろうか……。
光はそんなことを思いながらしばらくして楓から目を逸らした。このままずっと見つめていたらきっと、今まで想っていた自分の気持ちを抑えきれなくなってしまいそうだと思ったからだ。
楓の周りにある空になったアイスとコーヒーの入れ物を袋に集めて光は外へ出た。突然もわっとした熱気に包まれて一気に現実の世界へと引き戻される。東の空が少し白んでいた。
「おはよう、財前くん」
早朝のアルバイトの男性が自転車でやってきて光に挨拶をする。光も挨拶した。気がつくともうすぐ自分のバイトが終わる時間帯だった。持っていたゴミをゴミ置き場に捨てると、彼と一緒に店内に入る。
「あれ?珍しくお客さんがいる。ずっとあそこで寝てるの?」
彼は飲食スペースで寝ている楓のことを見てそう尋ねた。光は何食わぬ顔をして「俺の彼女です」と言う。彼は「えっ、そうなの?」と目を丸くして驚いた顔をした。
「冗談ですわ」
そう言って光は彼に少し微笑む。いつの日か冗談でなくそれが本当になる日が訪れることがあるのだろうか。すっかり明るくなった外を眺めながら光は思う。きっと今はまだわからない。けれどもしかすると自分はもう少しだけ彼女との距離を縮めたいのかもしれない。心のなかで光はそう思った。
バイトの終了時刻がきて光は制服を脱いで着替えを済ますと、飲食スペースで寝ている楓の肩を叩き「お客さん、こんなところで寝てはったら風邪ひきますよ」と彼女の耳元で囁く。楓は寝ぼけ眼をこすりつつ、光の方を目を薄く開いてぼんやりと見る。彼女はどうやらまだ夢見心地のままのようだった。光はまだ夢の世界にいる楓の手を引いてコンビニの自動ドアを抜けると夢現の境から現実の世界へと戻っていったのだった────。