授業が終わると休み時間になった。教室の中があっという間に騒がしくなる。気がつくとあちらこちらで数人のグループができており、その声は次第に大きくなっていった。
私は一番後ろの窓際の席から動かずに、窓の外をただぼんやりと眺めていた。そこには何もかもすべてを包んでしまいそうな入道雲が青空にどっしりと浮かんでいた。
「楓ちゃん!」
私のことを呼ぶ真っすぐな声が耳に届く。同じクラスの謙也くんがいつものように、私に笑顔を向けていた。
「なぁなぁ、聞いて欲しい話があるねんけど」
そう言うと彼は私の席のすぐ側まで来た。彼は私と目線の高さを合わせると、「こないだ部活であった話やねんけどな……」と楽しそうにしてお喋りを始める。彼の笑顔を見ると自分も少し笑顔になった。私は彼の話す声に深く耳を傾けて、相槌をうった。
休み時間になると彼は、いつもこうやって私のところまで話しに来てくれていた。彼と話すこの時間、私は教室でひとりではなくなった。彼の声を聞いていると胸の中にあった孤独感や不安が少しずつ私の中から薄れていく。彼が私の机で話してくれるこの瞬間だけが、唯一、私の落ち着ける時間だった。
***
──中学2年生の3学期。
私はこの大阪の四天宝寺中学校に転校してきた。普段から大人しくて口数も少なかった私は、この学校の独特なお笑いのノリについていけず、少し戸惑っていた。地方からの転校生は珍しかったようで、みんな最初は私に話しかけてくれていた。しかしだんだん私がクラスのノリに馴染めないことを周りが感じ取っていったのか、次第に私はクラスの中で浮いて、孤立していった。そして誰も私に話しかける生徒はいなくなった。自分の性格上、この学校で友達ができないことは仕方がないことなのかもしれない。私はそう諦めて、とりあえず毎日をやり過ごすことにした。
そうしている内に冬が過ぎ、季節は春になると、私は3年生になった。新しいクラスで友達を作ることに私はすっかり臆病になっていた。教室でみんなが楽しそうにお喋りする声をどこか他人事のように遠くで感じていた。私は一番後ろの窓際の席に腰掛けたまま、窓から見える桜の景色を、ただ、ぼうっと眺めていた。
しかしそんな中、彼はごく自然に私に話しかけてきたのだ。
『あれ?見慣れへん顔やな。もしかして転校してきたん?』
その瞬間、私の胸の中に澄んだ風が通ったような心地よさがあった。
私は少し俯きながら『うん……』と返事をする。
『やっぱり。そうやと思ったわ。俺、忍足謙也っていうねん。謙也でええで。俺も名前で呼んでもええ?なんていうん?』
謙也くんは明るい声で私にそう言った。私は『佐藤、楓……』と小さな声で返事した。鼓動が少し早くなる。
『ほな、楓ちゃん、やな!』
名前を呼ばれておそるおそる彼を見る。彼はにっこりと笑っていた。まっすぐで迷いのない笑顔だった。
きっと彼も私のことが珍しくて、今だけ話しかけてくれているだけなのかもしれない。私のことを知っていくうちに愛想をつかして離れていってしまうのかもしれない。そんな不安が頭によぎった。
それに私は友達を作ることを諦めようとしていたはずだった……その時までは。
彼のその笑顔を見ていると、なぜだか私は急に彼のことを引き止めたくなってしまったのだ。
『あ、あの……!』
せっかく話し掛けに来てくれた彼をがっかりさせたくない。私は咄嗟にそう思うと、普段の自分ではない別の自分を装った。いつもより無理をして、私は彼とたくさん話すことにした。ちゃんとうまく話せているだろうか。大丈夫だろうか。話している間中、心臓がずっとどきどきと鳴っていた。
その翌日。彼はまた「楓ちゃん!」と私の名前を呼び、休み時間に話し掛けに来てくれた。私はまたどきどきしながら彼と話した。すると彼は休み時間のたびに私に話し掛けに来てくれるようになった。そして私と彼はいつの間にか休み時間の間だけ毎日必ず話すようになっていた。彼の期待を裏切らないでいれたことに、私は心の底からホッとした。彼が初めてこの学校で出来た私の唯一の友達だった。
***
「そしたら財前が俺にサーブ打ち返して……ほんで……」
謙也くんは自分の所属しているテニス部の話をよくしてくれた。明るくてスポーツもできる彼は私とはまるで正反対だった。
「謙也ー!ちょっと来てや!」
「おー!待ってや!……楓ちゃんスマンな、ちょっと行ってくるわ」
私と話している間、謙也くんは他の同級生から時々呼ばれることがあった。彼は誰にでも優しくて、明るくて、ノリも良い。クラスの人気者だった。そんな彼がどうして私なんかと休み時間に一緒にいてくれるのか、ずっと不思議だった。
***
今日も休み時間、謙也くんが私に話し掛けに来てくれた。
「実は従兄弟が余ってる言うてチケットくれてん。有効期限があと少ししかないらしくて。よかったら付き合うてくれへん?」
謙也くんはそう言うと映画のチケットをひらりと私に見せた。私はそれを見ると嬉しさと同時に少し残念な気持ちになる。
「あ、えっと……ごめん」
「もしかしてこの映画嫌いやった?」
「ううん、そうじゃないんだけど……」
休み時間よりも長い時間、それも学校以外の場所で彼と一緒にいることに私は正直自信がなかった。私は彼の前では自分のことを偽っていたからだ。
私は2年生のクラスの事のことを思い出す。私は本来あまり話す方ではないし、ノリも悪いと思う。今はぎりぎり隠せているが、本当のことがわかったら、謙也くんは今までのように私に話掛けてくれるだろうか。私は謙也くんが自分から離れていってしまうことが怖かった。他の人に嫌われるよりもどうしてか彼にだけは嫌われたくないと思った。彼の話す声や笑顔が私のそばからなくなってしまうことを考えると、きっと寂しくて耐えられない。だからこの誘いも彼には悪かったが、私は適当な嘘をついて断わることにした。
「そっか……。まぁもらいものやから気にせんとってや。またなんかあったら誘うから、そん時はよろしく頼むで」
心なしか謙也くんからいつもの元気さが少しなくなってしまったような気がして、私は胸が痛くなって、彼の誘いを断ってしまったことを後悔する。本当は嬉しくてたまらなくて、すぐにでも一緒に行きたいと返事をしたかった。けれど彼に離れられてしまうよりかは今のままでいる方が、ずっといいと思った。私はどうしてこんなふうにしかできないんだろうと思うと、ふと悲しくなった。