教室の窓から吹く風が、私の前髪を揺らす。3月の風はまだ少し肌寒い。春の訪れはまだもう少し先のようだった。
「はぁ……」
私は何度目かのため息をつく。そして自分の席の机にあるテキストと問題集を見る。またため息をつくと、その机の上に突っ伏した。
私は当然のように授業についていけず、毎日放課後に教室で居残り、勉強をさせられていた。転校先によって授業の進み方や内容もバラバラなので、自分の知っていること、知らないことが教科書の中には混在している。転校するたびに私は頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「帰りたい……」
私は思わずつぶやく。教室は私しかいないため静かだった。耳を澄ますと遠くで吹奏楽部の調律の音が聴こえてくる。なんだかその音が心地良くなってきて、私はだんだんと眠気に襲われる。すると足音が近づいてきた。
「あ……おった」
突然、教室内に声が響いた。私は思わず顔を上げる。そこには財前くんが腕組みして、扉の柱にもたれかかっていた。
「居眠りですか?」
彼はジャージ姿だった。きっと部活中なのだろう。あれからちゃんとサボらずに参加しているんだなと思った。
「監督から楓先輩の様子を見てきてくれって頼まれたんですわ」
「監督……」
……ああ、オサムちゃんという先生のことかと気づく。
「いつになったら部活に来てくれんねんって言うてましたけど……」
「そんなこと言われても……」
私はあれから気がつけばテニス部のマネージャーになってしまっていた。入部届を出した覚えはなかったのだが、どういうわけだか、既に入部したことになってしまっていた。もしかしてまたあの先生の仕業だろうか。しかし私はまだ一度も部活に参加したことはなかった。というのも、放課後はこのように居残り勉強があったため、参加しようにもなかなか行けない状態であった。
私って部活に入部した意味あるのだろうか。というかそもそも入部した覚えはないんだけど。だから断るって言ったのに……。
あれこれ考えながら不意に扉に目を移すと財前くんが姿を消していた。気配がして、顔を上げるとすぐ側に彼がいた。私はハッとする。彼は私の机を見下ろしていた。
「……英語?」
彼はぼそりとつぶやく。私の机の上に広げられたテキストに顔を近づける。それをさっと手に取りあげると、ページをパラパラとめくった。
「あっ」
「これ、ホンマに2年生の教科書ですか?楽勝っスね。よかったら教えたってもいいですけど」
「えっ、本当……?」
私は彼を見上げた。意外なところからの助け舟に少し安堵する。
「せやけど、タダっていうわけにはいきませんけど」
「えっ……」
私はどきっとする。まさかお金を取るつもりだろうか。
「今日、この後ってなんかあります?」
「この後……?ううん、ないけど」
「話したいことがあるんですけど、時間ありますか?」
「え……うん」
私は瞬きした。話したいこと?一体なんだろう。彼と改まって話すことなどあっただろうか?
彼は別の席から椅子を引っ張り出してくると、私のすぐ真横に座った。
ふと隣の彼に目をやる。違和感がした。どうしてか何かが違うような気がする。なにが違うんだろう。彼に英語を教えてもらいながら、少しだけ考える。しばらくしてから、「あ」と気づいた。彼の身長が以前よりも少し伸びていた。前は私と同じ身長だったはず。それに両耳のピアスもこの間よりも数が増えていた。
全ての問題が解けると私はホッとする。これでやっと解放された。私は彼にお礼を言った。
「ほな、着替えてくるんでここで待っててください」
***
「それで……話したいことって?」
私が尋ねると、彼は窓ガラスから外を眺めた。赤く染まった夕日が見える。
「……俺、ホンマは部活辞めようと思ってたんです」
「え……辞める?」
「この1年生の間で辞めようと思ってて」
「……」
「まだ少し思ってますけど。でももう今更やし」
「……もしかして部活サボってたのって、そのせい?」
「……」
「寒いからだけじゃなかったんだ」
「そんなガキみたいな理由やと思うてたんですか」
「うん……」
「はぁ」
彼は呆れた顔をした。
「……せやけど、なんか気が変わったというか」
「そうなんだ。でもよかったね」
「よくないですよ」
彼はため息をついた。そして私に向き直ると、「なんでよかったと思うんですか?」と真面目な顔をして訊いた。
私は少し考えて、口を開く。
「……だって財前くんが戻ったとき、みんなすごい嬉しそうだったよ。みんなに必要とされてるって感じがした。そういう居場所があるって私は羨ましいなって思うけど」
「……」
「だから辞めなくてよかったなって思って……」
私はそこまで言うと、ふと我にかえった。自分の口からなぜそんな言葉が急に滑り出したのかわからなかった。それと同時に私は少し虚しくもなった。財前くんを見ると何かを考えるようにして黙っていた。
「……楓先輩は?」
「え?」
「楓先輩は部活どうするんです?俺にそこまで言うんやったら、自分は辞めるとか言うんはナシですよね?」
「……」
その時、窓からピュウッと冷たい風が吹いた。
「さぶ」
「窓、閉めようか?冷え性だもんね」
私はガタガタと音が鳴る窓を閉めた。
「そのネタでイジるのやめてもらっていいですか」
「え、別にイジったわけじゃ……」
「やっとマトモな人がおったと思ったのに」
彼はぼそりとつぶやいた。一瞬何を言われたのかわからなかった。マトモな人?誰が?私?
「あっ、せや」
急に彼は何か思いついたようにした。そして自分のスマホを取り出した。
「連絡先って訊いてもいいですか?」
「連絡……?」
「監督が聞いてこい言うてたんで」
「……」
彼に言われて私もスマホを取り出した。しかしこうやって学校の人と連絡交換したことにろくな思い出がなかったので、少し躊躇する。
「……でも私、マネージャーとしてまだ何もできてないけど」
なんとかこの場をごますためにそう言ってみる。
「今のところ先輩の連絡先、知ってる人誰もいないみたいなんで。監督が困ってるみたいなんです」
「……」
ほかに断る理由が思いつかない。私はしぶしぶOKした。彼で連絡先を交換する。
すると彼のスマホの待受画面がちらっと見えた。その画像に私は見覚えがあった。
「それって……バンドの?」
一瞬だけだったがとあるインディーズバンドのロゴが見えた気がした。そのバンドの曲を私は少しだけだったがネットで聴いたことがあった。
「え、知ってるんスか?」
「あ、うん。でもあんまり詳しくないけど」
「せやけど、これまぁまぁマイナーですけど、マジっスか?」
彼は嬉しそうにしてテンションが少し上がっていた。私はしまった、と思う。それから彼と少しそのバンドについて話をした。あまり仲良くしないようにと思って距離を取っていたというのに。こうやって話をしたりして仲良くなっても、いずれ絶対に別れが来ることを私は知っていた。そのたびに傷ついたり悲しくなるのはもう嫌だったのだ。