どうしてこんな夢を見てしまったんだろう、と思った。
あの時、彼とは特に何かあったというわけではなかった。確か時間は夜だった。暗闇の中、目の前には巨大な水槽。そして水槽は青いライトが照らされて、それがとても幻想的に見えたことを思い出す。水槽の中で同じところを何度もぐるぐると往復するイルカ。水が大きく揺れてその度にザブン、ザブンと波が揺れて音がした。水が光に反射してキラキラしている。それをただ、誰もいない観客席で私と彼は静かに眺めていた。
***
01.白い月
転校初日の早朝。外に出るとまだ辺りは薄暗かった。冬の空には白くて丸い月が浮かんでいる。ぼんやりと月を見上げながら新しい学校の方向へと足早に歩く。冷たい風が通り過ぎると、私はマフラーの中に思わず顔をうずめた。
これから通う新しい四天宝寺中学校は引っ越してきた自宅の近所であった。予定よりもだいぶ早く学校に到着してしまう。私は少し佇んで、学校全体を眺めた。お寺……だろうか?その外観は重厚で厳かな雰囲気だった。自分の想像していた学校と随分とかけ離れていたため、私は少し驚いてしまった。
スマホの時計を確認するとまだ担任と会う約束までに時間があった。とりあえず正門を潜ろうとすると、突然「お嬢さん」と後ろから声をかけられた。その声の大きさに私は思わずビクッとする。
「お嬢さん、佐藤楓やろ?さっそくやけど、ちょっと俺と一緒に来てもらえるやろか?」
帽子をかぶった、20代後半ぐらいの男性だった。先生だろうか。その外見はとても教師には見えなかった。私は少し不審に思い、躊躇っていると「ほな、行こか」とその男は踵を返して、正門を潜り進んでいった。私は慌てて男の後に着いていくことにした。
少し歩くと辿り着いた先は校舎ではなく、テニスコートであった。何名かの男子がテニスの練習をしている。ボールがラケットに当たるたびに小気味のいい音が響いていた。
「おーい!ちょっと練習やめて、こっちに集合してもらえるか?」
男が生徒たちを呼ぶと、練習がぴたりと止んだ。全員がこちらへとやって来て、私たちを囲んだ。
「この子が今日からうちのマネージャーやってくれる佐藤楓さんや。仲良くしたってな」
「……え」
男はそう言って私の肩をポンッと軽く叩いた。予想外の展開に私は息を飲んだ。周囲からはパチパチと拍手が上がる。マネージャー?一体何の話だろう。私は頭が真っ白になる。
「あ、あの」
「ん?」
「人違いじゃないですか?私、聞いてませんけど……」
「まぁ、言うてへんからな。今初めて言うたんや」
私が戸惑っていると、男は平然とそう言ってにかっと笑う。少し頭が痛くなった。
「オサムちゃんが前に言うてたマネージャーにしたい子って、キミなんや」
端正な顔立ちの男の子が私に近づいた。
「俺はこのテニス部の部長、二年の白石や。同い年みたいやし、仲良くしてな」
白石くんは柔らかく微笑んだ。そしてスッと私の方に手をさし出す。どうやら握手を求められているようだ。彼の振る舞いには隙のようなものがなかった。私は状況がまだ把握できていないため、その握手は返さずにおどおどとする。
「い、いや……私は」
「まぁ、各々の自己紹介は長なるからまたあとにしよか」
「せやな。オサムちゃんの言う通りやわ」
白石くんは握手の手を引っ込めた。
「ほな、マネージャー」
オサムちゃんと呼ばれた男がまた私の肩を叩いた。どうやら私をここに連れてきたこの男がこの部の顧問のようである。私はまだマネージャーでもなんでもない。それなのに話は進んでしまっている。
「さっそく最初の初仕事頼むわ」
「初仕事……?」
「財前くんをここに呼んできてほしいねん」
「財前、くん?」
私が聞き返すと、顧問はゆっくりと頷いた。
「せや。財前光。あいつ最近よう部活サボりよってな、困ってるねん」
「あの、でも私、マネージャーとかはちょっと……」
「どこにおるんかはわかってるねん。そこへ行って、彼を連れ戻してもらえるやろうか?」
彼は私の話をほとんど聞いていなかった。ひと通り話し終えると私の背中をトンっと押す。そして「ほな、頼んだで!」と大声で叫ぶ。笑顔で私はテニスコートから追い出されてしまった。
***
「なんでこんなことに……」
私は肩を落とした。昔から流されやすいのが自分の悪いところだった。仕方なく言われた通りの場所へ向かう。馴染みのない校舎をよそよそしく歩いた。時折窓に映る自分の似合っていない制服姿が見えてため息をついた。
しばらく歩くと目的の図書室に到着する。私は扉にゆっくりと手をかけた。
図書室は思っていたよりもこじんまりとしていて、静かだった。部屋に足を踏み入れると中は少し暖かい。壁際に書架が並んでいた。その中央に大きな机があって、いちばん奥の窓際に男子生徒が腰掛けていた。こちらに背を向けている。彼がそうだろうか?図書室にはこの人しかいないようだった。彼のその奥に石油ストーブがあるのが見えた。彼はそのストーブの前で手をかざしながら、寒そうにして窓の外を眺めていた。
私はおそるおそる彼の背後に近づいた。少し緊張する。
「あの……」
「……」
「ええと……」
「……」
声をかけているのに返事がない。よく見ると彼は耳にイヤフォンをしていた。音楽でも聞いているのだろうか。私はため息をついて、彼の肩をぽんぽんと2回叩いた。彼はゆっくりと振り返る。
「……」
イヤフォンを片耳から外して、私の顔をまじまじと見た。前髪の隙間から大きな瞳がのぞいている。
「あの……財前くん?ですか?」
「……はぁ、そうですけど」
やる気がなさそうな返事だった。そして私のことをじっと見つめていた。部活をサボっていると聞いたのでどんな人かと思ったが意外にもその外見は幼かった。1年生だろうか。私はホッとする。両耳にピアスが見えた。
「あの。私、伝言を頼まれて」
「伝言?」
彼は首をかしげた。
「うん。テニス部に戻ってきてって……顧問の先生が言ってたよ」
「……」
「だから一緒に来てほしいんだけど」
私が言うと彼はため息をついて目を伏せた。
「寒いんで、無理です」
「……えっ」
「俺はしばらくは行く気ないんで、そう伝えてもらってもいいですか?」
彼は面倒くさそうにそう言った。あっさりと断られたため、私は呆然とする。
「……」
伝えてくれって。また私はあそこに戻らないといけないのだろうか。オサムちゃんという人はこの子を連れ戻して欲しいと話していた。しかし連れて行けない場合はどうすればいいのか聞いていない。
ふと、私は約束の時間のことが気になった。とりあえずは先に担任の先生に会った方がよさそうだ。転校初日から遅れてしまうと色々とまずい。
「寒いって、みんなさむいよ」
私はとりあえずそう言った。部活をサボる理由はそんなものかと私は呆れてしまう。けれど彼はなぜここにいるのだろう。こんな朝早い時間に図書室にいるよりも家にいた方が寒くないではないか。私は少し疑問に思った。
「俺は……あの人らと違うんです」
彼は私に向き直るとそう言った。
「あの人らちょっとおかしいんです。なんか人並みから外れてるし」
「……」
確かにそうかもしれないな、と私は心の中で同感する。
「あと俺、冷え性なんで」
「冷え性?」
「平熱が低いんです」
「寒がりってこと?」
「……」
私が訊いたが彼は黙っていた。
「あっ」
ふと思い出して、おもむろに制服の上着のポケットに手を入れる。するとそこはだいぶ熱くなっていた。
「よかったら、あげる」
私はポケットから使い捨てカイロを手にして、彼にさしだした。朝に開封しておいたがなかなか暖まらなくて、ポケットに入れておいたのだ。
彼はしばらく黙ったままそれを見つめていたが「どうも」と言って受け取った。その時彼の指先と私の指が少しだけ触れて、ひやっとした。彼はカイロを自分の上着のポケットに仕舞い、「あの……」と言いかけて私を見た。
「もしかしてうちの新しいマネージャーですか?」
彼は私の顔をじっと見つめながらそう言った。どうやらこの子にも私の事が伝わってるみたいだった。
「なったつもりはないんだけど……半ば強制的に」
「……そっすか」
彼は先ほどから私を何か観察するように見ていた。私の知らないところで一体どんな話になっているのだろう。全くわからない。それになぜテニス部なんだろう。私はテニスなんて授業でせいぜい1、2回ぐらいしかやったことがないし、ましてや興味を持ったこともなかった。
「マネージャー、断ろうと思って」
「え?」
私が言うと彼は少し驚いたような顔をした。
「私、いつまでここにいれられるかわからなくて。また引っ越すかもしれないから。突然辞めることになったら迷惑だろうし」
淡々と説明する。私の転校はこれが初めてではなかった。
「……そろそろ行かないと。よかったら財前くんの方からみんなに言っておいてくれないかな?」
スマホを取り出して時間を見た。まだ担任と会う時間まで少しあったが、ここでこうしていても、彼はどうやら一緒に来てくれそうもない。少し悪いと思ったが、部の揉め事に今日来たばかりの転校生は関係ない気がした。
「サボりの邪魔してごめんね。それじゃあ」
私はこの学校からどうせいなくなるんだ。部のマネージャーなんてもともと縁のない話である。私は彼に背を向けた。するとガタッと後ろから音がしたので思わず振り返る。彼が立ち上がり、私の腕を掴んでいた。
「ちょっと、待ってください」
彼と視線が合う。彼と私は同じくらいの身長の高さだった。
「断るんやったら自分の口でちゃんと言うてくださいよ」
「……」
私は黙り込む。一体どの口が言うんだ。と心の中でつっこんだ。
「それにあの人らしつこいんで、簡単には諦めてくれないと思いますよ」
「え?」
「俺の時もそうやったし」
彼はそう言いながら何かを思い出すようにしていた。俺の時も……。私はその言葉が少し引っかかる。
「せやから断ったところで、結局マネージャーやることになると思いますよ」
「でも……」
私は少し戸惑う。
「ほな、一緒に行きますわ」
「え?」
「部活、戻ります」
「?でも、寒いんじゃ……」
「もう寒くなくなりました」
そう言うと彼は私から腕を離して、上着のポケットに手を入れた。そして隣をすっと通り過ぎ、入口の扉の方に進んでいった。ふと私は彼がいなくなった席の窓に目をやる。空には白い月がまだ見えていた。