その日の放課後、雨が急に降り出した。私はちょうど下校の途中だった。こんな時に限って降りたたみ傘を家に忘れてきてしまう。悲しくなっていた気持ちにさらに拍車をかけるようにして、次第に雨はざあざあと音を立てて強まっていった。とりあえず雨がしのげそうな古い建物をみつけると、慌ててその屋根の下に駆け込んだ。すると気がつかなかったが、既にそこには先客がいた。
「あれ?楓ちゃん……?」
「あっ」
隣に目をやると、そこには私のよく知っている人物がいた。制服の肩の方が雨で少し濡れている。
「めっちゃ奇遇やな。楓ちゃんも雨宿り?」
「う、うん」
私の声が少しうわずる。
「急に降ってきよって、ホンマかなんよな」
謙也くんは目の前の雨を見てため息をついた。まさか彼と一緒になるなんて。どうしよう。地面のコンクリートの側溝からはゴウゴウと水の流れる音がしていた。
「この調子やったら、雨、当分止みそうにないで」
「…….そうだね」
私も暗くなった目の前の空を眺めながら返事をする。さっきから私の心臓がうるさく鳴っていた。いつもと違う場所でふたりきり、しかもいつまでここにいるのかわからない。私がいちばん避けたいと思っていたことだった。できれば今すぐにでもここから逃げ出したい。どうしよう。どうすれば……。頭の中でぐるぐると考えがめぐる。
しかしここで雨宿りすること以外に他に何も思いつかない。
「……」
「……」
すると、急に会話はそこで途切れてしまった。かわりに雨の音がだんだんと大きくなっていく。私はずっと緊張していた。何を話そうかと思い、必死になって頭を悩ませた。いつもなら学校では謙也くんの方がよく話をしてくれていたが、彼はさっきから黙ったままだった。私は少し不思議に思い、おそるおそる謙也くんの方を横目で見る。すると、彼は私のことをじっと見つめていた。
「……え?」
私が彼の視線に気づくと、彼は「あっ、いや」と言って私から慌てて視線を外した。しかし、しばらくするとまた私の方に視線を戻した。
「あー、えっと……俺な、」
謙也くんは何か言いかけようとしていた。その時だった。
「ニャア」
私と謙也くんの間から突然鳴き声がした。足元を見るとそこには一匹の猫がいた。首輪がないので野良猫のようである。猫もどこかから雨宿りに来たのか、雨で全身がびしょびしょになって濡れていた。
「猫?うわっ、めっちゃ濡れとるやん……」
「……」
私ははっとして急いで自分の鞄からタオル生地のハンカチを取り出すと、しゃがみ込んで猫を拭いてあげる。猫は逃げ出さずに大人しく私に拭かれていた。可愛らしい大きな黒目が私のことをじっと見つめている。拭かれている間中、猫はずっと私の手をペロペロと舐めていた。思わず顔が綻んで笑顔になった。
そこで私は「……あ」と我にかえった。
そういえばずっと自分が何も話していないことに気がついた。私はいつも何かに夢中になると話すこと自体をすっかり忘れてしまう。何か話さなければ。咄嗟にそう思った。しかしこういう時にかぎってまったく何も思い浮かばなかった。私はだんだんと不安になってくる。
すると謙也くんは私のすぐ隣に来ると、ゆっくりとしゃがみ込んだ。そして優しい手つきで猫を触った。
「よかったなぁオマエ。ツイてるで」
謙也くんは猫の頭をふわふわと撫でながら笑った。猫はなんとなく嬉しそうに尻尾を振っている。私は謙也くんと猫の様子を眺めながら少し微笑んだ。
「楓ちゃん、普通にしてる方がええと思うで」
突然謙也くんが猫の方を見ながらぼそりとつぶやいた。私は「え?」と目を見開いて彼を見た。
「そうやって普通にして、笑ってる方がええっていうか……」
彼はそう言いかけて目を伏せた。私は彼が言っている意味が分からなくて首をかしげる。
「俺な、前から思っててん」
「……」
「楓ちゃん、俺にずっと気ぃつこうてるんちゃうかって」
私ははっとした。思わず胸がどきりとする。
「俺、毎日話してるし、見てるから……なんとなくわかるっちゅーか」
「……」
「もしかして俺が休み時間に話しかけてるんって、迷惑やった?」
「……!」
私は慌てて首を横に振った。迷惑なはずがない。謙也くんに話しかけてもらえていなかったら、私はずっとひとりだった。謙也くんに話しかけてもらえたあの日から、私は心細くなくなったのだ。私はずっと彼に助けられていた。
「迷惑なんかじゃ……」
私が言いかけると突然、猫がぶるぶると体を震わせる。細かい雨粒が勢いよく飛び散った。
「うわっ!?」
小さな雫が私たちに降りそそいだ。私と謙也くんは思わず顔を見合わせる。
「ハハ、容赦ないやっちゃなぁ。ホンマ」
謙也くんが笑い、私もふふっと微笑んだ。
「迷惑やなかったらいいねん」
話題が元に戻ると彼はどこかホッとしたようにしていた。すると急に私の顔をまじまじと見て「あ、あとな……」と続けた。
「今日の従兄弟から映画のチケット貰ったって言うてたの、あれ実は嘘やねん」
「えっ」
「ホンマは俺が楓ちゃんのこと誘いたくて、自分で用意したっていうか……」
私は驚いて言葉に詰まる。
「せやから断られた時、実はめっちゃショックやってんで」
そう言うと謙也くんは照れくさそうにして頭を掻いた。
「どうやったら楓ちゃんが俺に心開いてくれるかなーって思って、俺なりに考えたんやけどな……まぁ、あえなく玉砕したっちゅー話や、はは」
彼は頼りなさげに笑った。その瞬間、ぎゅっと胸を掴まれるような感覚がした。
「まぁ、しゃーないよな。次はもうちょいマシなところ……」
「……ごめんなさい!」
「!?」
自分でもびっくりするぐらいに大きな声だった。謙也くんがびくりとする。
「あの、わ、私……嘘ついてたの」
私は声を震わせながらそう言った。
「嘘?」
「本当は謙也くんの誘いが嬉しくて、一緒に行きたかったのに、嘘ついて断っちゃって……。私、普段はあんまり話す方じゃないから、謙也くんにそれがわかったら……その、嫌われるかもと思って……つい」
私は俯きながら、小さな声を絞り出すようにして一気に話した。心臓の鼓動が早すぎてどうにかなってしまいそうだった。
「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに……本当にごめんなさい……」
謙也くんが私のために考えてくれていたことを思うと、胸が締め付けられそうになる。しばらくしてからゆっくりと顔を上げると、謙也くんは長いため息をついたあとに優しく微笑んだ。
「はぁ………よかったわ」
「……」
「楓ちゃん、やっと俺の前で素を見せてくれたわ」
「……え?」
私の心臓がどきりとする。謙也くんは私を見つめた。
「あのなぁ……俺、楓ちゃんのこと、そんな簡単に嫌いになんてなれへんで」
彼は真剣な顔をした。
「せやなかったら毎日休み時間のたんびに話し掛けたりせえへん」
「……」
「別に話すん得意やなかったら無理せんでもええから。俺は楓ちゃんと一緒におれるだけで楽しいねん」
「……」
「それだけで、なんていうか……その……」
「?」
謙也くんが急に口ごもる。
「い、癒されるっちゅーか……」
私は謙也くんの言葉に驚いて耳を疑う。思わず顔に熱が上がった。
「せ、せやから、その……もっと……な、仲良くなりたいっちゅーか……」
途端に謙也くんはしどろもどろになる。彼の顔を見ると真っ赤になっていた。
「お、俺にもっと素の楓ちゃんを見せて欲しいねん…!」
「……」
「あ、アカン?」
謙也くんは耳まで真っ赤になりながら私に訊いた。私は嬉しくてどうしていいかわからなくて精一杯首を横に振る。思いが詰まって胸がいっぱいになった。
「……ほな、今度はOKしてくれるやんな?俺と一緒に映画行ってくれへん?」
謙也くんは照れくさそうにしてそう言った。私は「うん」と微笑んで返事をする。
「ほんま!?よっしゃーーーーー!」
謙也くんはガッツポーズをして嬉しそうに笑った。私は恥ずかしくなって俯いた。
気がつくと雨はすっかり上がっていた。さっきまでいた野良猫はどこかへ消えてしまっていて、ふたりで一緒に探してみたが見つからなかった。雨宿りを終えると、私と謙也くんは並んで帰り道を歩きだした。私はもうひとりではなくなっていたのだ。