悲しくなってどうしようもない気持ちをどこにぶつけていいのか分からずに、夜、やみくもにただ歩き続けていると、たまたまある張り紙が目に入り、立ち止まった。
≪研究員補助アルバイト募集中 きのこ研究所 連絡先はこちら……≫
夜風が通り過ぎ、張り紙が揺れた。目の前にはいつの間にかレトロな施設があり、そこには「きのこ研究所」という掛け看板があった。
きのこ研究所?この街にこんな研究所があったなんて知らなかった。私は考える間もなく自分のスマホで張り紙の写真を撮った。
この際アルバイトでもなんでもいい。とにかく今の状況から抜け出したかった。職場で嫌な仕事を押しつけられ、残業で居残り夜遅くに帰る日々。断れない私も私だが、そんな状況を相談できるような人も会社にも周りにもいなかった。もうストレスは限界近くにまで達していた。そんな私の前に突如として現れたこの張り紙がまるで救世主のように感じて、少しだけ気持ちが楽になったのだった。
***
「では、佐藤さん。こちら研究員の矢良くん。今日から彼の研究の補助をしてもらうからよろしくね」
「はじめまして。矢良です」
所長から紹介されたのは矢良という短髪のメガネをかけた男性だった。私も矢良さんに挨拶をする。
「はじめまして。アルバイトの佐藤です。今日からよろしくお願いします」
私は会社を辞めた。そしてこの「きのこ研究所」でアルバイトをすることになった。あの夜に張り紙をみつけて次の日にさっそく研究所に連絡をしてみた。その後、面接をしてすぐに採用となり、とんとん拍子で今日からここで働くことになったのだ。
「こちらこそよろしく。佐藤さん、これから俺の研究の補助をお願いするから。何か質問などあればなんでも聞いてくれ」
矢良さんはこちらを見てメガネを少し上げる。口元は微笑んでいたが、メガネの奥の瞳が見えず、目が笑っているのかそうでないのか表情がわからなかった。しかしそのハキハキとした口調からは優しそうで真面目な雰囲気が伝わってきたので私は少し安心した。
「では矢良くん、あとは頼んだよ」
そう言うと所長は部屋から出ていった。案内された部屋は小さな小部屋で机が端に四つあり、正方形の形にくっついて並んでいる。机は一つしか使われていないようで残りは使用していないようだった。そしてその反対側には大きな机があり、研究の道具のようなものがいくつも並んでいる。
「じゃあ佐藤さんの机は俺の席の隣だから。荷物をまず置いて、適当に自分の机の中身を整理してくれる?」
「はい、わかりました」
矢良さんに言われた通り自分の机に荷物を降ろす。前の会社を辞めることができてホッとしたが今回はどうだろう。アルバイトだからきっと残業はないだろうし、今のところ研究所の人たちはみんな優しそうだった。だが一人暮らしの生活費を稼ぐとなるとギリギリのところかもしれない。この仕事を続けるとなれば他にも働くところを探さなければいけないだろう。
「ふんふん~♪」
そんなことを考えていると鼻歌が聞こえてきたので思わず隣の席を見る。自分の席に座っていた矢良さんが鼻歌まじりに楽しそうにじっと何かを見つめていた。
(あれ、この写真の人ってもしかして……)
矢良さんが見つめている先には「とある人物の写真」が飾られていた。うろ覚えだが私もこの人を知っている。この人はたしか……
「その方って夕闇……ほたる、さん、ですよね?」
「えっ」
そう、夕闇ほたる先生だ。思い出した。私は先生が描く絵本が好きで何冊か持っている。
「もしかしてお好きなんですか?実は私も……」と言いかけると、矢良さんはゆっくりと席を立ち、私の方を見た。
「ほたる……「さん」?」
「え、あの……?は、はい……」
「もしかして佐藤さん、ほたる先生の知り合い……とか?」
「え、い、いえ。知り合いというわけでは……」
「ふーーん……ほたる先生と親しいの……?」
「えっ!?いや、あの」
さっきまで優しそうだった矢良さんの態度が急に変わった。ど、どうしたんだろう?私はその勢いに押されてしまい少し後ろに後退りする。
「こんなところにもライバル出現とは……うかつだった……いや、待てよ、けどここでは俺の方が先輩だし……ブツブツブツブツブツブツブツブツ」
「え、えーと……?あの……」
矢良さんから恐ろしいオーラのようなものを感じた。矢良さんは突然自分の世界に入りこむと、何か独り言をすごい早口で言っているようだった。最初の印象とはまるで違っている。いったいどうしたんだろう。ひょっとしてなにか勘違いしてるのだろうか?
「しかし同じ職場で働く者同士仲良くしなければ……いや、同じ人を好きになったら話は別だ。だが俺は先輩だし、一体俺はどうすればいい……?ブツブツブツブツブツブツブツブツ」
「あ、あの!矢良さん!」
このままだと矢良さんの独り言が止まらなくエスカレートしていきそうなため、勇気を出して私は大きな声で名前を呼んだ。矢良さんは「はっ!」と我を取りもどし、独り言をやめた。
「あの私、夕闇ほたる先生の絵本のファンなんです。『きのこいぬ』がすごく好きで。夕闇先生のことは雑誌で少し見たので知っている程度でして……」
「え?」
私がおそるおそる夕闇先生について話すと、矢良さんはぽかんとしたように私を見た。
「それだけなんです。あの、なにか勘違いしていませんか……?」
「ファン……。あ、そうか。すまない。どうやら取り乱してしまったようだ」
続けて矢良さんは「なんだ違ったのか……」とぼそりとつぶやいたあと、ほっとため息をついた。なんだかわからないがどうやら矢良さんの勘違いは解けたみたいだった。
「えっと……もしかして夕闇先生とお知り合いなんですか?」
「え?」
「そのお写真、雑誌とかではなくプライベートな感じがしたので……」
写真に写っている夕闇先生はポーズを取っているというよりかは不意打ちで写真を撮られたような、そんなような表情をしていた。
「ああ。まぁそうだな。知り合いと言うかまぁその、なんというか、俺とほたる先生は……つまり……」
語尾がだんだんと小さくなっていき、最後はボソボソと話して聞き取れなかった。写真を飾るぐらいだから夕闇先生と仲が良いのだろうか。矢良さんと夕闇先生。二人はどういった関係なのだろう。しかし先ほどの勘違いの様子からしてなんとなくだが矢良さんは夕闇先生に好意がある感じがした。
「コホン、……そういえば佐藤さん。『きのこいぬ』、好きなんだって?」
「え?は、はい」
急に話題が絵本の『きのこいぬ』に変わった。矢良さんのメガネがきらりと光る。
「実は今日仕事帰りにほたる先生のお宅にお邪魔する予定なんだが、よかったら佐藤さんも一緒に行く?」
「えっ、夕闇先生のお宅に?いいんですか?」
突然のお誘いにびっくりしていると矢良さんはふっと微笑んだ。
「ああ、佐藤さんもいずれ出会うことになるだろうから」
「いずれ……?夕闇先生とですか?」
「まぁ行ってみればわかるさ」