朝練が終わると私は日直だったため、先にひとりで教室へと向かった。
廊下の角を曲がり自分のクラスに入ろうとすると、突然教室内から「佐藤ってさ……」と聞こえてきたので、思わず扉の前で足が躊躇する。
「五組のヤツと付き合ってなかったっけ?」
クラスのなかでも特に目立っている男子の声がした。他にも数人の声が聞こえる。その雰囲気からして私はなんとなく嫌な予感がした。教室に入るに入れなくなり、そこに突っ立ったまま耳を傾ける。
「やんなー?せやのに謙也ともつるんでるし、こないだもふたり一緒に帰ったりしてて、なんか怪しくない?」
「私もそれ思っとった。っていうか、二年生の財前くんともふたりで帰ってるところこないだ見て、びっくりしたわ」
「えっ、うそっ。まさか三股かけてるとか?彼氏かわいそー。佐藤、大人しそうに見えてめっちゃ計算高いやん」
「大人しいっていうか、八方美人やろ。いっつも人の顔色見て、自分の意見言わんと周りにええ顔してるやん。ウザいわ」
「そういや佐藤って転校してきてから女子といるところ見たことないやんな」
「せやな」
「クラスの女子から嫌われてるからグループに入られへんのやろ。謙也くんら優しいからグループに入れてもらえてるだけで、勘違いすんなやって感じ」
「……」
足が地面に張り付いたようになってそこから動かなくなった。指先が信じられないくらい冷たくなり、動悸がする。
「?楓ちゃん」
後ろから急に声がしたのでびくりとする。
「……どないしたん?教室入らんの?」
振り向くと、後から来た白石くんと謙也くんが私のことを不思議そうに見ていた。
「あ……うん、ごめんね」
私は自分の上履きの先を見た。動揺を必死に隠そうとするが体が震えていた。
うつむいて、おそるおそる教室の中へと一歩入る。すると室内がざわつき、「え、もしかしてずっとおったんちゃうん?」「うそっ、聞いてたん?趣味わるー」というヒソヒソ声が聞こえた。自分の席についたが怖くて周りを見渡すことができなかった。ずっと誰かに何か言われている気がして、授業中も内容が頭に入ってこず、そのことばかり考えていた。
昼休みになったが食欲もなく、なんとなく教室に居づらくてすぐにお弁当を持って教室から出た。どこで食べようかと校舎内をうろうろとする。なるべく一人になりたくて、あまり人気のない校舎の最上階の階段で食べることにした。少し蒸し暑いが他に居場所がないので我慢するしかない。階段に座ってお弁当を広げるが、全く喉を通らなくて弁当箱の蓋を閉じた。
三股、八方美人、彼氏がかわいそう、ウザい、嫌われている……さきほどの陰口がぐるぐるとめぐっては胸が痛くなった。
すると、スマホが震えた。画面を見ると謙也くんからメッセージが入っていた。他にもいつの間にか謙也くんからの不在着信が二件表示されている。私はメッセージの方を確認した。
≪今、どこにおるん?≫と、その一言だけだった。
謙也くんのことだから私の様子に気づいているのかもしれない。返信しようと思ったが、さきほどの私に向けられた陰口が次々と頭によぎった。私と関わることで謙也くんにも迷惑をかけてしまうかもしれない。私は考えた末に、≪ご飯食べ終わったから、うろうろしてるよ≫と送った。そうすると、すぐに返信がきた。
≪どのへんにおるん?そっち行ってもええ?≫
どうしよう。しばらく悩んでから、≪ごめん。今日はひとりでいたい気分なんだ≫と書きこんで送信ボタンを押そうとしたが、やめた。こんな文章を送ったらきっと謙也くんが悲しい思いをするかもしれない。なんて返信すればいいんだろう。私はスマホから文章を消して、膝を抱えて顔を埋めた。
すると遠くからトントントン……と勢いよく階段を上がってくる音が聞こえて人の気配を感じた。ここは人はほとんど来ることはないはずなのに、いったい誰だろう。ゆっくりと顔を上げる。
「おった!やっとみつけたわ……!」
「謙也くん……?」
驚いて目を見開いた。謙也くんの顔は上気して息があがっていた。
「ホンマ探したで、教室で呼んだのにひとりでどっかいってまうし、電話にもででくれへんし」
どうやってこの場所がわかったのだろう。謙也くんはふうと一息つくと、私の隣に座った。
「楓ちゃん……なんかあったん?」
「え?」
「朝、教室入る前、なんかおかしかったやろ?」
謙也くんは隣で私の顔を心配そうに見つめる。
「えっと……」
私は謙也くんの方は見ずに視線を下に落とした。
「今朝ちょっと忘れ物してたことを急に思い出して、びっくりしてつい立ち止まっちゃったんだ……だから何もないよ」
私は嘘をついた。こんなところで二人きりでいればまた変に噂されるかもしれない。私のことはいいが謙也くんのことまで何か言われるのは嫌だった。
「心配してここまで探しに来てもらってごめんね。私は大丈夫だから、教室に戻ろう」
私は立ち上がって「さ、行こう」と謙也くんを促し階段を降りようとした。すると手首をぐっと掴まれる。私はびくりとして思わず振り向いた。
「……謙也くん?」
謙也くんは立ち上がると、向かい合い、私の目をじっと見つめた。
「そんな嘘、俺が気づけへんとでも思ってるん?」
「え?」
「楓ちゃん、もっと俺のこと頼ってや」
謙也くんは私の手首を掴んだ手に力を込めた。
「そうやって俺に迷惑やと思って隠そうとするけど、俺はもっと本当のこと言うてほしい」
「……」
「前も言うたけど俺は楓ちゃんのことが大切で、その大切な人が悲しんでるんは嫌やねん」
「……」
「……って、やっぱ俺やったら頼りにならんよな」
謙也くんは苦笑する。一瞬表情がふっと曇った。私の家に来た時のあの表情と同じだと思い、はっとした。
「そんなことない……!ごめん……」
私は慌ててそう言った。
「嘘ついてごめん……。どうすればいいか……その、わからなくって」
陰口を言われたのは自分のせいで、それに謙也くんを巻き込みたくなかった。それなのに結果的に彼を悲しませてしまい、私は罪悪感に陥った。
謙也くんに陰口を言われたことを話すべきだろうか。謙也くんに聞いてもらえれば、気持ちがきっと楽になる気がする。けれどそれは甘えているような気もして、陰口の内容をまた自分で言葉にするのも気が引けた。
陰口を言われたのは自分の普段の行いのせいだ。私はどうすればよかったんだろう。陰口を言われないようにするためには、もっと周りの目を気にして努力した方がよかったんだろうか。
彼氏と三股されていると噂にならないように謙也くんと財前くんとはなるべく距離を取って……。
八方美人だと言われないように人への態度を変えて……。
クラスの女子ともっと仲良くできるように努力して……。
『相手からどう思われるか、やなくて、もっと自分がどうしたいかを大事にしたらどうですか』
すると、突然以前に財前くんから言われた言葉が思い浮かんではっとした。
そうだ、自分がどうしたいか……。私は今どうしたいんだろう。
陰口を弁解したい?謙也くんに話を聞いてもらいたい?私はどうしたい?
人にどう思われるかばかり考えていて自分の気持ちを置き去りにしていた。もっと考えなくちゃいけない。自分の気持ちを。
「ごめんね、私、自分の気持ちが整理できてなくて」
「……」
「自分のことなのによくわからなくなって……謙也くんに本当のことを言いたいけど、謙也くんを巻き込みたくない気持ちもあって……」
私はぽつりぽつりと話した。謙也くんは黙って私の顔を見つめている。
「謙也くんの気持ちは嬉しいし、いつも本当に頼りにしてるよ。でも私自身、自分が今どう思ってるのかわからなくて。だから、一度自分のことを整理して考えてみようと思う。落ち着いて話せそうだったら、またその時は話を聞いてもらってもいい?」
私はゆっくりと自分の気持ちを言葉にした。謙也くんは少し沈黙して、私の腕を掴んでいた手を離して、頷いた。
「そっか、俺の方こそスマン、楓ちゃんの気持ちも考えずに一方的に急かしてしもうて」
「ううん、そんなことない。心配してくれてありがとう」
「けどあんまり一人で抱え込まんときや、辛い時はいつでも話聞くから。無理せんとってや」
謙也くんはそう言ってまっすぐに私を見つめた。私は「うん」と頷いて謙也くんを安心させるために少し微笑んだ。
その時、チャイムが鳴り響いた。昼休みは終わり、私たちは急いで教室へと戻った。