フェイズ7

 そのあとのことはもうほとんど覚えていなかった。

 二人で部室の外へ出ると雨が降っていた。私は折り畳み傘を家に忘れてきてしまったことを思い出してはっとする。

 「傘、忘れたんですか?」

 私の様子を見て財前くんは声を掛けた。「そうみたい……」と言うと、財前くんは自分の傘を開いてこちらに傾けた。

 「ほな、家まで送りますわ」

 「え?」

 「え?やなくて、はよ入ってください。行きますよ」

 雨音がだんだんと強くなる。私は意味を理解すると、財前くんの傘におそるおそる入った。肩と肩が触れ合いそうな距離になり、心臓の音が早くなる。顔や体が熱くてどうにかなりそうだった。どきどきしていることが彼に伝わってしまわないかと心配になり、うつむいた。

 何を話したのかは覚えていない。気まずくならないように、私がどうでもいいことをべらべらと喋っていた気がする。雨がざあざあと音を立てて降っていた。早く家に着かないかなということだけを必死に考えていた。

 自宅に着いて、中へ入ると全身から一気に力が抜けたような気がして、玄関でへたりこんだ。しばらくずっと胸の鼓動がうるさくて鳴り止まなかった。

 しばらく経ったあとに少し落ち着いてくると、階段を早足で上がり自室に向かう。足元が雨で濡れていて冷たい。家の中は湿気でじめじめとしていて蒸し暑かった。自室に入るとすぐさまクーラーをつける。窓の外ではざあざあと雨が激しく打ちつけていた。私は制服から普段着に着替えるために服を脱ぐ。思わずベッドのそばに置いてある姿見で自分の姿を見た。私はいったいどうしてしまったんだろう。鏡の中の私は瞳が潤んでいて、頬が赤く染まっていた。

 すると、鏡の中にきらり、と何か光る小さなものが見えた。テーブルの下の方だった。

 なんだろう?床に膝をついてテーブルの下をのぞいた。手を伸ばしてそれを掴み、確認する。四天宝寺中の校章バッジだった。

 どうしてこんなところに?と思った。私のものかどうか一応確認したが違うようだった。これはもしかすると謙也くんのだろうか。昨日私の家に来た時に彼が落としてしまったのかもしれない。明日渡さなければ。私はそれをなくさないようにと、小さなポーチに入れて鞄の中へしまった。

***

 昨日の雨は通り雨だったようで、あれからすぐに止んだ。翌日はまた朝から太陽が眩しく照りつけていた。

 今日はテニス部で久しぶりの朝練がある日だった。私は部員みんなの体調をノートにつけてまとめた。早朝だというのにもうすでに暑い。額から汗が流れて、何度も首にかけているタオルで拭った。暑い夏のコートで脱水状態にならないように、こまめにみんなに水分補給を促した。急遽レギュラー同士の練習試合をすることになり、私はコートの外でみんなのことを見守った。

 次は謙也くんと一氏くんの試合だった。私は試合をする謙也くんのことを目で追った。

 こんな私がマネージャーの役割を与えてもらったことは、謙也くんがテニス部に誘ってくれたからだった。テニス部に入った当初は右も左もわからなくてびくびくとしていて、私なんかがみんなの役に立てるだろうかと正直不安だった。けれどそんな私を見て謙也くんは「十分役に立ってるねんから、自信持ちや」と言っていつも励ましてくれた。そのおかげもあってほんの少しだが、こんな自分でも何かできることがあるんだと思うことができた。彼がいたから心強くて、今も尚、マネージャーを続けることができている。

 試合が終わると、私は二人に冷えたスポーツドリンクとタオルを手渡そうとした。二人とも息が切れて、汗でびっしょりだった。私は謙也くんにいつ忘れ物のことを話そうかなと考えていると、謙也くんがこちらを見ていて、目が合った。

 「?どないしたん?」

 手渡したタオルで汗を拭きながら、謙也くんは私に微笑んだ。私は今話すべきだろうかと窺いながら口を開いた。

 「あ、あのさ。この間うちの家に来た時に忘れ物してたよ」

 「忘れ物?なんか俺楓ちゃんの家に忘れてたっけ?」

 「校章のバッジがテーブルの下に落ちてて……」

 「えっ、ホンマ?全く気いつかへんかったわ」

 「多分謙也くんのだと思うから、またあとで確認してもらえるかな?」

 「おう、わかったわ」

 「…………家?」

 隣で聞いていた一氏くんがぴくりとして「謙也、おまえ佐藤の家に行ったんけ!?」と声を上げた。コートにいた全員が一斉にこちらを向く。謙也くんは「え?あ、ああ、そやけど……」としどろもどろになった。しまった。みんながいる前で言わない方よかったのかもしれない。私は自分の言動を反省した。その場に居たたまれなくなり周りを見ると、みんなの視線をちらほらと感じた。そのなかの一人に財前くんがいた。心臓がどきりとする。私はどうしていいかわからなくなって、思わず別の方向に視線を移した。

 朝練が終わると、教室で謙也くんにバッジを渡した。
 
 「いつの間に落ちたんやろ。楓ちゃんに言われなわからんかったわ、おおきに」

 やはりバッジは謙也くんのもののようだった。謙也くんはバッジを上に放り投げてキャッチした。

 「なあ、今日って帰り、財前と一緒に帰るん?」

 「えっ」

 「放課後部活ないやろ?せやからどうなんかと思って」

 謙也くんの言う通り、今日の放課後は珍しく部活はなかった。夏の暑さは連日最高気温を更新していた。まだ早朝の方が気温が低いため、そちらにシフトしたほうがいいのではないかとこの間の部長会議で意見があり、うちの部でも朝練で様子見をすることになった。

 「今日は財前くんとは一緒に帰らないと思う」

 財前くんとは部活終わりに居残ったあと、自然と一緒に帰る流れになっているだけであって、特に約束をしているわけではなかった。おそらく今日は一緒には帰らないはずだろう。そう考えると私はなんだかほっとしたような、残念なような複雑な気持ちになった。

 私がそう伝えると、謙也くんは少しはにかんだようにして「ほな、一緒に帰ろうや」と私を誘った。