謙也くんが帰ったあと、私は二つのグラスをキッチンで洗いながらひとりで静かに考えていた。
謙也くんの私のことが大切だという言葉がすごく嬉しかった、謙也くんは私にとっても一番大切な友達だと思っていたから。けれど彼の曇ったあの表情が頭にこびりついて離れなかった。
「……」
私がなにかいけないことをしてしまったのだろうか。謙也くんを悲しませるようなことを自分が無意識にしてしまったんじゃないかと、思い出すとサッと血の気がひくような感覚がした。私は洗い物を終えると、ダイニングテーブルの椅子に座り、今日のお昼に謙也くんにもらったパンを鞄から取り出した。それをテーブルに置くと、そのひとつを袋から取り出して一口食べた。ベランダの窓の外を見るともうすっかり夜だった。窓ガラスに滲むほのかに灯る照明の光を眺める。
こんなにも自分のことを気遣ってくれている彼に、私は何か返せているだろうか。謙也くんは最近までずっと胸が痛くて苦しい思いをしていたと言っていた。きっと彼のことだから、私に気づかれないように明るく振る舞っていたんだろうなと思う。そのことに今まで気づけなかった自分は本当に最低だと思った。
すると、突然着信音が鳴る。こんな時間に誰だろう。そう思ってスマホを手に取り、画面を見ると財前くんからだった。
「もしもし?」私は電話に出た。
『もしもし?楓先輩?今大丈夫ですか?』
「うん。財前くん、どうしたの?」
財前くんの声を聞くと、なぜかほっとして泣きそうになった。私は彼に気づかれないようにして、なるべく普段通りの声を出すようにした。
『今日そういえば楓先輩の話聞かれへんかったなって思って』
「えっ?」
『楓先輩のことやから、また自分のこと責めて、悩んでるんちゃうかと思ったんで』
「……」
わざわざそれで電話してきてくれたのだろうか。彼の優しさが胸の奥に沁みる。それと同時に私は財前くんにも気を使ってもらってばかりで、そんな自分がなんだか情けなく感じた。
『やっぱり、なんかあったんですか?』
財前くんの少し心配そうな声が耳元に響く。
さきほどの謙也くんのことを財前くんに話すのは、何か違うような気がしてやめておこうと思った。私は今日廊下で彼と会ったことを財前くんに伝えようとした。しかし、言葉がうまくでてこなくて私は黙り込んだ。
『……楓先輩?』
彼に避けられてしまったことを考えるとまた胸が痛くなる。どうして避けられてしまったんだろう。どうして彼に嫌われてしまったんだろう。そう思うと胸の奥がずきずきとして悲しくてたまらなかった。
「ごめんね……えっと」
私は途中で泣き出しそうになるのを我慢して、言葉に詰まりながらながらも、ぽつりぽつりと彼とのことを話しだした。財前くんは相槌をうってくれていたが、私が話し終えると黙っていた。
「財前くん……?」
『もう、別れた方がええと思いますわ』
「えっ……」
心臓が大きな音を立てる。
『彼女がわざわざ話しにきてるのに、そんな態度とるとかないやろ』
電話越しからも緊張感が伝わる。財前くんの声は低く苛立っていた。
『って俺が決めることとちゃうけど、けど話し合いもできへんねんやったら、もうあかんと思いますわ』
「……」
『楓先輩は優しいから、全部自分のせいやと思って、ひとりで背負って傷ついて納得してるけど、それ、ちがいますから』
「……」
『楓先輩はなんも悪くないですよ』
財前くんははっきりとそう言った。
『悪いのは向こうの方やから。彼女のこと、こんなにずっと不安にさせてんねんから』
喉元が熱くなる。胸の奥がつんとした。
『こんなに不安にさせて、なんもせんと放ったらかしって、彼氏失格やろ』
財前くんは語気を強めた。ぽろぽろと涙が出た。
『楓先輩は悪くないねんから、もっと自分に自信もって、堂々としといたらええと思いますよ』
胸の奥にみるみる暖かさが広がっていく。彼の声色はいつの間にか優しくなっていた。
『あと今日も言ったけど、相手よりも自分が思ってることをもっと大事にした方がええですよ』
「……うん」
『楓先輩がどうしたいかは、楓先輩が決めたらええと思いますから』
私は涙を手の甲で拭いた。呼吸を落ち着かせて平常心をとり戻そうとした。
「私も……財前くんに言われて気づいたの……自分がどう思ってるか考えてみようって」
『それがいいと思いますわ』
「うん、ありがとう……いつもごめんね」
『別にええから、そんな気使わんでください』
「……」
心が落ち着くと、なぜか川田さんのことが頭に浮かんだ。
「財前くん、川田さんとどうだった?」
『え?』
急に川田さんの名前をだしたので、財前くんの声は少し戸惑っていたが、そのうち、『ああ……断りました』と言った。
「そっか……」
『……』
「楓、ただいまー」玄関の方から声がした。
「あっ、ごめん。お母さんが帰ってきたみたいだからそろそろ切るね。電話してくれてありがとう。また明日学校で」
財前くんに別れを告げると、私は慌ててスマホの通話を切った。
「ごめん、彼氏と電話中だった?」
母は扉の向こうから顔を出して叫んだ。私は泣いていたことを悟られないように、顔を逸らしてうつむいた。
「ううん、彼氏じゃなくて……あの……」
そう言いかけて、私は財前くんのことをどう説明すればいいのかわからなくなった。
財前くんは私の後輩だ。テニス部の後輩……。確かにそうだけれど、今はただのそれだけの関係じゃない気がする。友達?けれど友達と呼ぶにはなにか違うような気がして……。私は母には曖昧に「テニス部の後輩の子」とだけ返事した。些細なことなのに少し胸の奥がもやもやとした。
そのあと母が買ってきた惣菜を二人で食べた。いつもは私が二人分の夕飯を作るのだが、今日は母が仕事帰りにスーパーへ寄るとの連絡があったため作らなくて済んだ。
夕食を食べ終わると私は母に断って、すぐに自室へ戻るために二階へ上がった。今度は自分が思っていることをひとりできちんと考えてみようと思った。自室から窓の外を眺めると、暗闇に浮かんだ月は丸く、いつもよりも大きく感じた。