フェイズ1

 私と彼が付き合ったのは今から二ヶ月前のことだった。
 
 その日は雨が降っていた。誰もいない渡り廊下に呼び出された私は、そこで告白された。

 彼は同じ三年生で、私とは別のクラスだった。彼の存在を知っていたのは背がすごく高くて目立っていたからだ。何度かすれ違ったことはあったが、話したことはなく、これといった接点はなかった。彼に突然呼び出されたとき、きっと何か文句でも言われるのではないかと思い、私はびくびくとした。いつも何かあるたびに自分が悪いような気がして、人の顔色ばかりうかがっていたからだ。だから彼から「好きだから付き合ってほしい」と告白されたとき、きっとなにかの冗談だと思い、すぐには信じられなかった。

 

 

 「で、どうなんですか?その後は」

 ロッカーで荷物を整理していた財前くんが私にたずねた。

 「音信普通、かな……」と、私は視線を足元に向けつぶやく。言葉にするとなんだか胸が痛かった。

 ふたりしかいない部室内は静かで不思議な感じがする。放課後、テニス部の部活動が終わると、部員たちはあっという間に帰宅した。あとに残っていたのは私と財前くんのふたりだけであった。梅雨が明けて、窓から差しこむ日差しは強かった。

 「音信不通?って会えないんですか?」

 財前くんは眉を寄せてそう言った。彼の反応はもちろん当然だった。

 「うん、そうみたい……」

 私の彼氏が音信不通になったのは、だいたい二週間前からだった。学校には来ているようだが、忙しくて私と会って話す時間もないらしい。廊下ですれ違っても挨拶をかわすだけだった。連絡も私が一方的に送るだけで途絶えている。

 「直接話しに行ったらどないですか?」

 「話したいけど、話したくないような……」

 「なんですか、それ」と財前くんは呆れた顔をして私の隣に座る。空気が揺れて、財前くんの髪がふわりとなびいた。

 「きっと原因は私が悪いせいだと思うから……」

 ここのところ彼のことばかり考えていて、ずっと不安な日々が続いている。原因が私のせいなのだと思うと、心臓にびっしょりと冷や汗をかいたような気分になった。

 「またそれっすか、自分責めるやつ」

 財前くんはため息をついた。

 「その癖、ええ加減になおした方がいいと思いますよ」

 私たちは部室のベンチに横並びで腰掛けている。私と財前くん、今の状況を他人から見れば、どちらが先輩でどちらが後輩かわからないだろうなぁ、と頭の片隅でぼんやりと思った。 

 「そうだよね。でもね、考えられる原因といえば……」

 「はぁ……また始まったわ」

 財前くんはまた呆れた表情をした。どういう経緯だったかは思い出せないが、私は気がつくと財前くんに彼氏のことを相談するようになっていた。
 
 財前くんは私が居残って話をしたいと思っていると、空気を読んでいつも付き合ってくれている。彼は私のひとつ下の後輩で、テニス部で知り合った。
 
 最初は誰にでも物怖じせずにはっきりと意見する彼のことが、私は怖くて苦手だった。けれどある日、彼は私の自信のなさを言い当てると、そのうちアドバイスをくれるようになった。アドバイスは真意をついていたし、彼は私が思っているほど怖くはなくて、むしろ意外と優しかった。私は気がつくと彼のことが苦手ではなくなり、いつの間にか信頼するようになっていた。
 
 私は人と付き合うということ自体が初めてで、どうしていいかわからないときには財前くんに訊ねていた。いろんなアドバイスができる彼はきっとモテるんだろうなと思っていたが、実際に学校の女子からもかなり人気のようだった。 

 「私が空回りしすぎて困らせたのかもしれない……」

 「……」

 「せっかく好きだって言ってもらえたから、いろいろ頑張ろうと思って、やりすぎたのかな……」
 
 彼に気を使わせたくなくて、なるべく笑顔を絶やさずに明るく振る舞うようにつとめた。自分の思っていることは言わずに、彼の意見にたくさん同意するようにした。彼の好きな食材で、頼まれてもいないのにお弁当やお菓子を毎日作ったりした。がっかりされたくない、嫌われたくない、という一心で思ってやったことが、結局裏目にでてしまったのかもしれない。相手に合わせようとして、そのくせうまくいっていない。私ってなんでこうなんだろう、と肩を落とした。

 「まぁ、それが楓先輩のええところでもあるんちゃいます?」

 財前くんはそう言って自分の前髪を触る。

 「せやけど、直接会って、聞いてみなわからんのとちゃいますか」

 確かに彼本人が何を考えているかなんて誰にもわからない。実際に会って聞いてみる以外に方法はない。しかし私は彼と話すのが怖かった。彼の口から自分のことを否定されることを思うと、心臓がぎゅっとなった。

 「やっぱり、このままでいいかも……」

 「このままって、自然消滅ですか?」

 自然消滅……。私もなんとなくだがそういう予感はしていた。このままの状態が続けば、いずれはそうなってしまう。

 「財前くんは前にお付き合いしてた時って、自分から連絡を返さないこととかあったの?」

 おそらく財前くんのことだからないだろうなと思った。けれど自分の不安を振り払いたくてあえて質問してみる。彼はしばらく黙ったあとに「俺ですか?ないです」とはっきりと答えた。「やっぱり、そうだよね」と私は余計に虚しくなり、質問したことを後悔する。

 「あの、向こうは楓先輩のこと好きで付き合うたんですよね?」

 財前くんの声が低くなる。彼の視線は遠くを真っすぐに見ていた。

 「どう考えても避けられてるようにしか思われへんのですわ」

 「……」

 「そうやなくても誤解されるような行動とっといて、楓先輩の連絡にはなんも返信せんとか、正直ありえへんと思いますわ」

 一瞬空気が張りつめたように変わって、私はどきりとした。財前くんの横顔を見ると少し苛立っている様子だった。
 
 彼のこういう思ったことをはっきりと言えるところが、最初は怖かったが、今は少し羨ましく思っていた。いつも相手の顔色をうかがって言葉を選んでいる私とは違い、財前くんは本音でしっかりとした意見を持っている。

 「付き合ってすぐはマメに連絡もしてくれていたんだけど……」

 「……」

 私はなんと返せばいいかのわからなくて、迷った挙句に彼のことをフォローしてしまう。案の定、財前くんは「はぁ」とため息をついたので、せっかく私のことを思って言ってくれたのにしまったなと思った。財前くんは膝に頬杖をつき、窓の外に視線をやった。私もそちらの方を見る。西日が眩しくて思わず目を細めた。

 「話、聞いてくれてありがとう」

 本当はもう少し話をしたかったが、部活で疲れている彼をこれ以上付き合わせるわけにはいかなかった。財前くんはしばらく黙っていたが、目を伏せると立ち上がった。

 「ま、ええですけど。ほな帰ります?」

 私は返事をし、彼と一緒に途中まで下校した。